“もっと勉強しなければ”という思いが語学習得や留学へのモチベーションとなった――第334回(上)
木下明子
プレジデント社 プレジデント ウーマン 編集長
構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2023.4.19 /東京都千代田区のプレジデント社にて
週刊BCN 2023年8月7・14日付 vol.1981掲載
【東京・平河町発】木下さん率いる『プレジデント ウーマン』編集部は、オンラインメディアによる情報発信のほか、通販サイト「プレジデント ウーマン ストア」で販売する商品の開発も行っている。コラムではリュックサックを紹介したが、取材時に木下さんが着用していたスーツもそのひとつ。働く女性のためのスーツゆえ、さまざまな機能を備え、工夫が凝らされており、男性だけで開発したらこうはいかなかっただろうという「女性目線」に裏打ちされたものだった。こういう形の情報発信もあることに思い至る。
(本紙主幹・奥田芳恵)
第二外国語のスパルタ授業で
中国語をマスターする
芳恵 木下さんは新卒でプレジデント社に入社され、カナダ留学の期間をはさんで再入社されています。プレジデント社一筋なのですね。木下 新卒のときは就職氷河期で、実はここしか受からなかったのです。出版が第一志望でしたが、放送局のアナウンサー試験や新聞社など、他のマスコミも受けました。でも、新聞社に至っては女性の採用が全体の1割ほどしかなく、なかなか厳しかったですね。
留学時はいったん退職しましたが、帰国後、挨拶しにいったら「戻ってこい」という話になり、現在に至っています。
芳恵 出版志望ということは、やはり幼い頃から本や雑誌が好きだったのですか。
木下 文章を書くのは得意でしたね。幼稚園の頃から、自分で絵本をつくっていたんです。
芳恵 幼稚園児の頃から!?
木下 絵と文章を書き、そこに見出しをつけて、それを職員室にいる先生に見せに行ったことを覚えています。
芳恵 絵本に見出しまでつけるとは、子どもの頃から、編集者的な素養があったのですね。そういうことが得意ということは、ご家庭の影響もあったのでしょうか。
木下 ところが母は理系で、数学の先生をしていました。
芳恵 でも、教養という部分では共通するところがありますものね。そして、外で働くお母さまの背中を見てこられた、と。
木下 私が育った地域は田舎で、まだ男尊女卑の気風がだいぶ残っていましたが、身近にいた親類の女性はみんな働いていました。
芳恵 なるほど。そうした環境で育ったことが、いまの木下さんのご活躍につながっているような気がします。
ところで、木下さんは中国語や英語がお得意ということですが、大学では何を専攻されたのですか。
木下 日本文学です。
芳恵 外国語のイメージはあまりないですね。
木下 そうですね。中国語と初めての出会いは、第二外国語の授業だったんです。
芳恵 第二外国語とは、ちょっと意外ですね。
木下 私が履修した中国語の先生はとてもスパルタで、いまだったらパワハラ問題になるくらい厳しい教え方をされました。第二外国語は教養科目ですから、通常はそれほど厳しく教えられることはないですよね。でも、幸か不幸かその先生の専門は「中国語の学習法」で、私たちは格好の実験材料にされてしまったわけです。
芳恵 楽しくはない、と。
木下 当時は、楽しいどころかつらいだけでした。
芳恵 でも、結果的には中国語を身につけることができたわけですよね。何か上達するきっかけはあったのですか。
木下 就職が決まった大学4年生のときに、友人と北京に遊びに行ったのです。このとき、現地の中国人に話しかけた際、発音をすごくほめられました。それが私にとって、中国語学習の転機となったのです。
芳恵 旅行に行って、現地の方に会話が通じたらうれしいですよね。
木下 中国の人は、中国語を話す外国人に対してはとてもフレンドリーで、いいと思ったらものすごくほめてくれます。そのおかげで伸びたと思いますね。それで就職してからも、3年間ほどは土曜日に中国語を習いに行っていました。発音がよかったせいで、中国語のスピーチコンテストで全国3位になったんですよ。
芳恵 それはすごい! 第二外国語の授業での苦労が報われましたね。
語学の勉強に明け暮れた
20代の日々
芳恵 入社されて、最初は『dancyu』編集部に配属されたそうですね。木下 編集部では、「食の雑誌なのに、どうしてお酒が飲めないんだ」と言われました。
芳恵 それは体質だから、仕方のないことですよね。
木下 それから「どうして英会話ができないんだ」とも言われましたね。いまだったら、言い返すと思いますが、当時は何でもストレートに受け止めてしまい、悩んだこともありました。そういうことを言う人に限って、ご本人もできなかったりするのですが(苦笑)。
芳恵 中国語をモノにしたのに、今度は英会話ですか。
木下 私たちの世代の英語の勉強はリーディングとグラマーだけで、いまのようにスピーキングやヒアリングはありませんでした。
入社当時は英会話を習ったことがなかったので、そんな言われ方をしてしまったのですが、こちらも週末に教室に通い、マスターすることができました。ですから、私の20代はずっと語学の勉強をしていたような感じですね。
芳恵 そして、まさに退路を断って留学されるわけですが、そうした学びのモチベーションというか原動力はどこにあったのでしょうか。
木下 私は、浪人も留年も留学もせず、全部ストレートで通過して社会人になりました。これではダメで、もっと勉強しなければならないという思いにとらわれていたんです。
芳恵 全部ストレートということは、ふつうに考えると、とても優秀であると思うのですが、それではダメなのですか。
木下 「自分には海外経験がないからダメだ」という思いを克服したいがために、退職して留学する道を選びました。でも、その道もタイミング的には厳しいものがありました。アメリカの大学院も「氷河期」だったのです。
芳恵 氷河期?
木下 2001年に起きた同時多発テロとドットコム・バブル崩壊の影響で景気が悪化し、大学院の入試倍率が軒並みアップしてしまったんです。
芳恵 景気と大学院の倍率に、何か関係があるのですか。
木下 アメリカでは、不況になると大学院に行って学びなおす人が多いのです。英語圏への留学経験もなかったので試験の点数も芳しくなかったこともあり、結局、アメリカは受けたところ全部落ちてしまって、一校だけ合格したカナダの大学院で1年間学びました。
芳恵 どんな分野について学んだのですか。
木下 アジア太平洋政策という分野ですが、法学、経営学(ビジネススクール)、教育学など、けっこう幅が広かったですね。
芳恵 後半では、帰国されてからのお仕事を中心にお話をうかがいます。(つづく)
コラボ商品のビジネスリュック
木下さんは、キャリア女性向けの商品開発にも力を入れている。「プレジデントウーマン ストア」で販売するこのリュックは、老舗バッグメーカーとのコラボ商品だ。女性向けに企画したものの、男性にも人気の商品だそうだ。心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
木下明子
(きのした あきこ)
香川県小豆島生まれ。1996年、早稲田大学第一文学部卒業後、プレジデント社入社、『dancyu』編集部配属。2003年に退社し、ブリティッシュコロンビア大学アジア太平洋政策大学院(カナダ)に留学。05年5月、同大学院修了。同年6月、プレジデント社に再入社し、『プレジデント』編集部配属。13年より同誌副編集長。17年、『プレジデント ウーマン』副編集長、18年1月、同誌編集長就任。キャリア女性向けの商品開発、ダイバーシティ関連の研修や講演も多数手がける。1児の母。中国語と英語に堪能。著書に『図解!ダイバーシティの教科書』がある。