社会的課題の解決こそがイノベーションの源泉となる――第333回(上)
竹林 一
京都大学経営管理大学院客員教授 オムロン イノベーション推進本部 シニアアドバイザー
構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2023.3.8/東京都中央区の天ぷらやす田にて
週刊BCN 2023年7月31日付 vol.1979掲載
【銀座発】竹林さんはオムロンという大きな組織に所属しているにもかかわらず、京大の大学院で客員教授を務めたり、ユーチューバーとして活躍したりと、傍らから見るととても面白い職業人生を送ってこられたように思う。はからずも、対談の中で竹林さんは「面白さを忘れると衰退していく」と語った。若干の関西テイストがまぶされているとはいえそうした思考のバックボーンがあってこそ、真のイノベーションが生まれるのだろう。面白さが世の中をよくするって最高じゃないですか。
(創刊編集長・奥田喜久男)
構想設計が大切なことは
コンピューターもデザインも同じ
奥田 ご著書(『たった1人からはじめるイノベーション入門』)を読ませていただきましたが、一見固いテーマにもかかわらず肩肘張らない関西のテイストで、とても面白かったです。竹林 それはうれしいですね。ありがとうございます。
奥田 竹林さんはこうしたイノベーションや新規事業開発の専門家ですが、若い頃からそうした志向があったのですか。
竹林 いいえ、本当はデザインや絵画の仕事に就きたかったんです。
奥田 芸術系の仕事ですか。いまの竹林さんの雰囲気からすると、ちょっと意外ですね。ということは、小さい頃からそうしたものに親しんでこられたのでしょうね。
竹林 父が早くに亡くなり、母と二人の母子家庭だったので、家で絵ばかり描いていましたね。でも、母はそればかりではいけないと考え、小学校2年か3年生の頃、私をカブスカウトに入れました。そこで外部の人と接触することで、社会性が身についたのだと思います。
奥田 なるほど、快活で社交的な竹林さんの原点は、そこにあるのですね。
竹林 実は、大学受験では美術系の国立大学を受けたのですが、勉強が足りず落ちてしまいました。それで、どこかまだ受けられるところはないかと探し、入学したのが大阪電気通信大学の情報工学科でした。
奥田 情報工学科ということは、コンピューターを学ばれたわけですね。
竹林 はい。1977年入学ですから、まだパンチカードを使っていた頃ですね。
奥田 デザインとはだいぶ違う方向に進まれたわけですが、違和感はありませんでしたか。
竹林 ところが、コンピューターもデザインと同じだと感じたんです。
奥田 それはどうして?
竹林 コンピューターもデザインも、構想設計を描くことが一番大事であることに変わりはないからです。
奥田 なるほど。基本的な考え方というか、その成果物の目指すところを明確にすることが大切なのは、どちらも変わらないということですね。
竹林 コンピューターの場合は構想設計にしたがってプログラミングをする、デザインや絵の場合はそれをデッサンに落としていく。具体化するための作業は異なりますが、はじめに何を実現するかというプランニングが最も重要なことは共通しています。
奥田 もともと、コンピューターの知識はあったのですか。
竹林 いいえ、大学に入るまではほとんどなかったですね。最初は、ゲームはどのようにしてできるのかといったことから興味をもつようになりました。いろいろな言語でゲームのプログラミングをしてみましたが、このとき、きれいな構造にしておかないと後工程が面倒なことになることを知りました。それで、構想設計が重要であると実感したわけです。
奥田 まさに「ゼロイチ」を生み出す際の重要なポイントとなるわけですね。
就職先を決めるために
創業者の自伝を読破する
奥田 竹林さんは新卒でオムロンに入社され、現在に至るまで籍を置かれていますが、就職の際に決め手となったことは何だったのでしょうか。
竹林 私は就職先を決めるにあたり、関西系のメーカー創業者の自伝を何冊も読みました。創業者がどんなことを考え、どのような信念を持ち、どんな企業理念を掲げて会社を創ったのかを知りたかったのです。
奥田 創業者の自伝ですか!
竹林 それで、ここなら面白いことができるのではないかと思って志望したのが、当時の立石電機(現・オムロン)でした。ところが、大学にオムロンの求人票は届いていませんでした。理系の場合は、研究室の教授の推薦で就職が決まることが多いのですが、求人票そのものが来ていなかったわけです。そこで就職担当の教授に頼み込むと、その教授がわざわざ会社まで足を運んでくださって、先方から「一人くらいなら受けてもいい」と言ってもらえたのです。
奥田 「一人くらい入れてもいい」ではなく「受けてもいい」ですか。きびしいですね(笑)。ところで、どんな創業者の思いが竹林さんの気持ちにフィットしたのでしょうか。
竹林 創業者の立石一真氏は「事業を通じて社会的課題を解決し、よりよい社会をつくる。そのためには、ソーシャルニーズを世に先駆けて想像することが不可欠になる」と述べておられます。つまり儲けるためにイノベーションを起こすという発想ではなく、まず、どんな社会的課題を解決するのかということを考え、その後に儲ける方法を考えるということですね。
奥田 そうした創業者の思いが、竹林さんのバックボーンにもなっているのですね。ちなみに、オムロンが解決に寄与した社会的課題にはどんなものがあるのですか。
竹林 たとえば、1964年に開発した「電子式自動感応式信号機」があります。当時、モータリゼーションの本格化によって交通渋滞が慢性化し、深刻な社会問題となっていたのですが、それを解決するため、道路の下にセンサーを埋め込んで車の位置を把握し、交通量に応じて信号を制御するシステムをつくりました。京都三条の交差点にはじめて設置され、現在の交通管制システムの基礎となっています。
奥田 60年近くも前にそうしたイノベーションが実用化されたのですね。
竹林 また、1967年に開発した世界初の自動改札機もその一つです。駅員さんの負荷を軽減し、正確に料金を収受するという、課題解決の目的が明確なイノベーションだといえるでしょう。
奥田 自動改札も世界初ですか。そういえば、関西のほうが関東よりも自動改札の普及が早かった気がします。
竹林 京都のオムロンに限らず、関西には「世界初」の製品やサービスが多いんですよ。チキンラーメンやボンカレー、回転寿司、それに屋上ビアガーデンも関西発祥です。
奥田 独創性では、関西が勝っている感がありますね。それに、どこか面白味があります。後半では、竹林さんご自身が構築したイノベーションの考え方や仕事観についてうかがいます。(つづく)
笑顔つきのスマホケース
17項目の目標を掲げたSDGsのステッカーに、なぜか18番目のマークがついている。「17項目達成しても笑顔がなければあかんやん」ということで、最後に笑顔のマークを入れた。「十八番」は「おはこ」とも読む。自社の得意技で持続可能社会をつくることも社会貢献だと、竹林さんは語る。心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
竹林 一
(たけばやし はじめ)
京都・西陣生まれ。81年、大阪電気通信大学情報工学科卒業後、立石電機(現・オムロン)入社。流通・鉄道業界の大型プロジェクト、新規事業推進などに携わる。オムロンソフトウェア代表取締役社長、オムロン直方代表取締役社長、ドコモ・ヘルスケア代表取締役社長を経て、オムロンインキュベーションセンター長、データ流通推進協議会理事、京都大学経営管理大学院客員教授などを務める。著書に『たった1人からはじめるイノベーション入門』(日本実業出版社)、『ここまできた! モバイルマーケティング進化論』(日経BP企画)などがある。また、【オモロい大人のヒストリー】竹林一の「し~ちゃんねる」で情報発信するユーチューバーでもある。