米づくりは子どもたちにとって いろいろなことが学べる何よりの教材だ――第331回(下)

千人回峰(対談連載)

2023/07/07 08:05

松永 孝

【対談連載】農業家/個人学習塾 松永 孝(下)

構成・文/浅井美江
撮影/世古博久
2023.3.25/紀北町「かかし農園」にて

週刊BCN 2023年7月10日付 vol.1976掲載

 【三重県紀北町発】松永さんの話にはしばしば奥様が登場する。どうしても会いたくなり、無理を言って登場していただいた。さっそうとクルマで乗りつけた奥様のかつ子さんは、小学校教師を勤め上げた熱い教育者だった。米づくりを通した子どもたちへの教えは、お二人のコンビネーションが見事に噛み合ってこそ実現したのだろう。固まった土を根気よくほぐして土壌を作り、種を蒔いて草を除き、大雨や台風から守り抜いて育てる。農業と教育には大きな共通点があることに気づかされた。
(創刊編集長・奥田喜久男)

2023.3.25/紀北町「かかし農園」にて

子どもたちと収穫した餅米は
餅にして老人会におすそ分け

奥田 松永さんのような方を何とお呼びすればいいんですかね。農業家ですか。

松永 うーん。特に呼ばれたことはないからなあ。職業と言えば私、塾もしているんです。

奥田 農業と兼業で? どういう経緯ですか?

松永 身体を壊して学校は辞めたんですが、塾なら農業をやりながらでもできるかなと。最初は生徒1、2人だったんですが、どんどん増えて20人くらいになって。

奥田 結構な人数ですね。

松永 いや、それでちょっと大変になって辞めたんですが、どうしても見てほしいという子を、今も6人ほど見ています。子どもたちとの関わりは農業のほうでもありまして。保育園の子たちとじゃがいも掘りをしたり、小学校の子たちの米づくり学習に協力をしています。40年近く続いてますかねえ。

奥田 小学校は何年生が来るんですか。

松永 最初は地域学習との関係で5年生だけだったんですが、いつからか全校生徒が来るようになって。といっても30人前後ですけどね。

奥田 米づくり学習のきっかけは?

松永 今の子どもたちって、農村に住んでいながら田んぼに入ったことがないし、米がどんなふうにしてできるかも知らない。なので、学校に「子どもたちに田植え体験とかどうですかね」と気軽に声をかけたら「ぜひ」となって。

奥田 子どもたちが田植えから稲刈りまでするんですか。

松永 そうです。田植えの時には足を取られてひっくり返ってどろんこになって大騒ぎです(笑)。

奥田 様子が浮かびます。楽しそうだ。

松永 取材もたくさんおいでになります。新聞記者の方とかね。

奥田 ああ、絵になりますねえ。うん。絵になる。

松永 最初は普通の米を作っていたんですが、途中から餅つきができるように餅米にしました。餅つきの時は近所の老人会を招待して、ついた餅を振る舞うんです。

奥田 まあ、うまいことを考えられる。餅つきを通して人のご縁がつながりますね。

松永 餅米は気仙沼にも送ってるんです。東日本大震災の時、甥っ子が会社から応援で行ったことがきっかけで。以来、毎年送っています。

奥田 松永さんはそういうことをお一人で考えつかれるのですか。

松永 自分でも考えますが、女房がですね。「米づくりの過程や稲の病気や雑草との闘い、水管理の苦労、それらを克服する工夫は子どもにとって勉強になる、すごくいい教材なんだ」と。女房はずっと小学校の教師をしていましたから。

奥田 なるほど。奥様の力も働いて。そうか、米づくりは学習教材。松永さん、ぜひ奥様に会いたいんですけど、会えますか?

――松永さんに頼んで、急きょ、奥様のかつ子さんにも来ていただくことに――

奥田 すみません。お忙しいところ。

松永かつ子(以下、かつ子) そうなの。忙しいのよ(笑)。いえ、こんな遠方までおいでいただいて、ありがとうございます。

奥田 話をうかがっていて、松永さんの農業への姿勢が普通の人と何か違う…。これは知恵袋がいるなと(笑)。

 「米づくりには子どもが学習できることがたくさんある」とおっしゃったそうですが。

かつ子 はい。米づくりはとてもいい学習素材なんです。田植えから刈り取りまで教えられることがいっぱいある。田んぼの草取りなんかもそのまま見せて、子どもたち自身に刈らせたほうが勉強になります。

奥田 奥様が小学校の教師になられたきっかけは?

かつ子 (ふふふと笑いながら)「池田・ロバートソン会談」ってご存じですか。

奥田 いや、知らないですねえ。

かつ子 1953年にね、ワシントンD.C.の国務省で、当時の自由党の池田勇人政調会長と、ウォルター・ロバートソン国務次官補が会談をしたんです。その中で池田さんが日本の国づくりを語る中で、「国づくりは人づくり」だと。私が大学の時に聞いた言葉なんですけど。

奥田 ほう…。

かつ子 人づくりをするには教育が肝要で、そのためには教師が必要だと。私、教育学部にいながら特に先生になろうとは思っていなかったんだけど、それを聞いて「教師もいいな」と思ってね。

奥田 なるほど! 教員生活はどうでしたか。

かつ子 楽しかったですよ。力を入れれば入れるほど、生徒たちが伸びてくれましてね。教師になってよかったなと今でも思います。

奥田 「国づくりは人づくり」ですか。何か米づくりにも通じるような気がします。

かつ子 はい。子どももお米も野菜も、育てるものはみんな一緒ですよね。

奥田 確かに。“種”そのもの自体の素地がよくても、気候とか整わないと育ちませんし。

かつ子 そう。環境を整えてあげないとね。

奥田 それにしても、米づくり学習や子どもさんの勉強と、松永さんがいろいろされるから奥様も大変なのでは?

かつ子 はい。お父さん(松永さん)はとにかくやさしいんですよ。自分のことより人のことが優先になってしまうので、ツケが全部こちらに来る(笑)。まあ、いいかと思ってますけどね。

奥田 奥様が知恵袋兼マネージャー(笑)。

かつ子 いえいえ。陰ながら協力してます。さ、私これから人寄せがあるので失礼します。会長さん、またおいでくださいね。では。

――さっそうと去られる奥様を見送って――

奥田 陰ながら、じゃないですね(笑)。実に頼りがいのある…。松永さん、奥様がいらしたら、急に静かになりましたね。

松永 いや、はい(苦笑)。

奥田 心強いマネージャーはおいでになるとしても、身体のこととか大変なこともあったかと…。もう農業をやめようと思われたことはなかったんですか。

松永 うーん。15年くらい前に水害でトラクターとか機械が全部水に浸かってダメになって。その時は本当にやめようと思いましたねえ。

奥田 乗り越えられたのはなぜですか。

松永 まあ、かっこよく言えば、じゃがいもを掘ってる時の子どもたちの笑顔とかね。「おじちゃん、見て見て!」とかの弾んだ声を思い出すと、向こうから「もういい」と言われるまでは「せなならん」と。

奥田 おお。そこですか。

松永 人によっては、30代になっても「おじちゃんとこの畑でじゃがいも掘ったねえ」と言ってくれるんです。そういうのを聞くとうれしいなあと思います。

奥田 では最後に今後のことをうかがいましょう。
どうしていかれますか。

松永 うーん。後継のこととかいろいろ考えますが、まあ、今はあと10年くらいは頑張るかという気持ちでいます。みんなが喜んでくれることをいいプレッシャーにしてやっていこうと…。

奥田 いい言葉だなぁ~。身体に気をつけて頑張ってください。今日はいろいろ教えていただいて、ありがとうございます。奥様にもくれぐれもよろしくお伝えください。
 

こぼれ話

 「わ~、綺麗だな~」。一面の菜の花畑。叫ばずにはいられない。ジッともしていられない。「いいですか、入っても…」。その時の写真が松永孝さんとのツーショットとなった。畑のど真ん中でお花に囲まれた時、フワフワと蝶にでもなったような気分になった。山あいに川が流れ、帯状に続く土地が孝さんの田んぼ。5ヘクタールと聞いても、その大きさが思い浮かばない。「あそこから、あそこまで」と指し示されて、「広いですねー」とうなった。この段階でとても満足したため、対談を終えた気分となる。なんというか、心の中が“満足”という喜びの気分で充満した感じなのだ。

 ここが孝さんの仕事場なんですか? 聞くまでもなく「そうです。毎日、毎日ですよ」。この同じ場所で…と思っていたら、菜の花の盛りが終わったら、ここの風景は変わる。田植えが始まると田んぼは早苗田となる。天候は毎日少しずつ変わる。稲が伸びて青々とした田園風景は、いつの間にか黄金色に輝く。稲を刈り取ると田んぼは土色に戻る。三重県尾鷲の冬は雪景色かしら。そんなはずはない、紀伊半島は降雨量の多さで有名だ。こうつづるだけで伊勢に4年間住んだことのある体験から雨降りの日の蒸し暑さを思い出す。この蒸し暑さは身体に堪える。孝さんはこの繰り返しを40年続けている。

 私はというと、毎日、新しい人に会い、話を聞いて記事にする。月に何回かは日本中を歩く。海外にも出向き、昼夜にわたって活動する。帰国する際の疲労感に浸りながら、次の取材地を探す。海外で受ける刺激は強いものの、取材の根を張ることは難しい。何回同じ海外の場所に出向いても、断片的な収穫でしかない。振り返ると、歳をとるに従って、国内のほうが楽しくなったようだ。47都道府県を3周りはしている。好きな街には足しげく、仕事をつくっては通った。もちろん、今もこの行動習性は続いている。

 思い起こすと、博多、金沢、高山に出向くことが多い。高山は困ったことに取材先が少ないので、出向く口実を自分でつくることになる。それは押しつけ講演活動だ。今にすると赤面するので、この辺りで孝さんに話題を戻す。

 私の性格は “ノマド”(遊牧民=どんな場所でも仕事する)である。だから、孝さんのような生活スタイルの人をみると、5ヘクタールの農場で365日仕事する人の心境を聞いてみたくなる。そこには意地の悪い自分がいる。「無理をしているのではないか」である。本当のところはどうなんだろう。

 『千人回峰』を始めたのは2007年1月からだ。300人を超える方々にお会いした。農業家の方とは初めての対談である。まさに私の真逆に位置する定着型生活スタイルだ。話題を広げる。以前、刀鍛冶の方との取材で、驚いたことがある。その名人はとても限られた仕事場の中で宇宙にまで広がる空間に心を充満させておられる。孝さんにも同種のことを感じた。満ち足りた心をしておられるのだ。刀鍛冶、農業家、新聞記者。それぞれに仕事場のスペースがある。数十坪、5ヘクタール、日本全国。物理的な広さは異なるが、対談すると同じような空気感に共鳴する。居心地の良い空気が漂った。(直)
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第331回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

松永 孝

(まつなが たかし)
 1954年三重県海山町(現:紀北町)生まれ。大阪商業大学経済学部卒業後、地元の小・中学校に講師として勤務。疾病のため退職し、療養しながら実家の農業に従事する。現在は5ヘクタールの「かかし農園」で米やじゃがいも、とうもろこしなどを栽培。春には菜の花やれんげを育て、畑を無料開放している。じゃがいも掘りや米づくり学習で地元の保育園や小学校に協力する一方、個人で子どもたちに勉強を教えている。2010年、自家米を「皇室新嘗祭献穀米」として献上。天皇陛下に献納する「新嘗祭献穀献納式」に夫婦で参列した。