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小さな村が活発に情報発信することで 日本全体の元気を取り戻したい――第330回(上)

千人回峰(対談連載)

2023/06/16 08:05

小村幸司

小村幸司

NPO法人 小さな村総合研究所 代表理事

構成・文/小林茂樹
撮影/大星直輝
2023.4.14/山梨県北都留郡丹波山村の「小さな村総合研究所」にて

週刊BCN 2023年6月19日付 vol.1973掲載

【山梨・丹波山村発】JR青梅線の終点、奥多摩駅。休日には多くの登山客やハイカーたちで賑わうポイントだ。ここからバスでおよそ1時間。奥多摩湖沿いの曲がりくねった山道を揺られていくと、東京と山梨の都県境を越えて丹波山村に入る。島しょ部を除くと関東でもっとも人口が少なく、その面積の97%は森林という、まさに自然に包まれた村である。東京からこの村に移住し、地域おこしのさまざまな試みを実践している小村幸司さんに根掘り葉掘り話をうかがった。とても興味深い内容であるとともに、その行動力とバイタリティに圧倒される思いがした。
(本紙主幹・奥田芳恵)

2023.4.14/山梨県北都留郡丹波山村の
「小さな村総合研究所」にて

都市の暮らしに疑問を抱き
村への移住を決断する

奥田 小村さんは、2014年にこの丹波山村に移住されましたが、そもそものきっかけはどんなことだったのでしょうか。

小村 私の前職はテレビディレクターですが、編集作業をしているときに、つけっぱなしにしていたテレビから「地域おこし協力隊」という言葉を耳にしたことです。夜中、ビール片手に協力隊のことを検索しはじめると、バーッとアドレナリンが出て、朝まで眠れなくなってしまったんです。

奥田 いきなり心をつかまれた感じですね。それは何歳のときのことですか。

小村 47歳です。このとき、自分が変わるタイミングだと思いました。そして、この丹波山を選んだのは、募集していた自治体の中で最も人口の少ない村であることに魅力を感じたからですね。

奥田 自分が変わるタイミングですか……。

小村 ここで、何か新しいことにトライしてみようと。実は25歳のとき、テレビディレクターに転身するときも、同じような気持ちになったことがあります。

 新卒で銀行に勤めていたのですが、「フィールド・オブ・ドリームス」という有名な野球映画に出てくる“If you build it, he will come.(それをつくれば、彼はやってくる)”という台詞にしびれてしまったんです。それで、映画の世界に携わりたいと、2年間で銀行を辞めてしまいました。

奥田 それも変わるタイミングだったと。それにしても、変化を恐れない生き方ですね。

小村 25歳のときは許されたけど、47歳ではダメだろうと、冷静に判断するもう1人の自分もいましたが、もうその気持ちは止められなかったですね(笑)。

奥田 地域おこし協力隊に応募されて、何をしようと思われたのですか。

小村 最初は、明確なものはありませんでした。25年間、東京という都市で暮らし、せわしない働き方への疑問や東日本大震災の経験も加わり、暮らし方を変えたいと漠然と思い、移住に踏み切ったんです。

奥田 ということは、移住された時点では「小さな村g7サミット」の構想はまだ生まれていなかったのですね。

小村 はいまったく。g7サミットの内容については後ほど説明しますが、移住してから思いついたアイデアでした。

 私は子どもの頃から牧場に憧れていて、学生時代に1年間のワーキングホリデーをとって、ニュージーランドの牧場で働いた経験があります。生き物相手なので休みがとれないと思いがちですが、現地の人は仕事を近所の人に任せ、10日間ほどのバカンスをとります。このバカンスによって、人が移動し、滞在先の小さな海辺の町でも消費が活発になって経済が回るんです。

 そうしたことを学生時代に知りながら、誰も休もうとしないバブル期の銀行に入りました。さらに、仕事は面白かったもののもっと休めない映像業界で働いてきました。だから、まずは働き方と休み方を変えようと考えたわけです。

奥田 そうした経験が、地域活性化の発想につながっていったと。

小村 そうかもしれません。2年ほど前に見たYouTube動画で、解剖学者の養老孟司さんがこんなことを話してました。意識的な都市の暮らしには、自然のなかで感覚的に過ごすバランスが必要で、そのバランスが崩れたままだと、共同体や社会が壊れてしまうと。私のなかで、その崩れたバランスを取り戻移住したんだなと合点がいったんです。
 

いちばん小さい村の集まりだから
「G7」でなく「g7」

奥田 そうした経緯を経て、小村さんは具体的な村おこしのアクションを起こされたのですね。

小村 私は14年4月に東京から移住し、丹波山村の臨時職員として働き始めたのですが、この年の6月、伊勢志摩がG7サミットの候補地になったというニュースを見て、「g7」のアイデアが頭に浮かびました。全国から7人の村長が集まって、サミットを開いたらどんなことが起こるか夢想したのです。

奥田 「G7」ではなく「g7」なんですね。

小村 そうです。小さな村の首脳会議ですから。まずは自腹で全国の小さな村を訪ね歩くことから始めました。丹波山村は村民わずか534人の関東で一番小さな村ですが、丹波山村よりさらに人口が少ない村で「どうしてこんな果敢な取り組みができるのだろう」と悔しさを覚えたことがありました。

奥田 他のさらに小さな村からも学ばれたと。

小村 「悔しい」と思って気づいたのは、「小さな村のほうが相手に与える刺激やインパクトはむしろ大きい」ということです。大相撲の小兵力士の活躍が周りの力士を奮起させるようなものかもしれません。

奥田 小さな村であることを強みにして、アピールするということですね。

小村 そういうことです。小さな村が活発に情報発信することで、周辺の自治体、そしてあわよくば日本が元気を取り戻すことができるのではないかと思えるようになったんです。

奥田 それでg7のメンバーは揃ったのですか。

小村 はい。丹波山村のほかに、北海道から人口673人の音威子府村、東北から人口522人の福島県檜枝岐村、近畿から人口411人の和歌山県北山村、中国から人口851人の岡山県新庄村、四国から人口360人の高知県大川村、九州から人口998人の熊本県五木村が集まってくれました。もちろん、それぞれがその地方で島しょ部を除いて一番人口が少なく、丹波山村同様、中山間地に位置する村です。

奥田 それぞれの村の反応はいかがでしたか。

小村 15年10月に、丹波山村に各村の担当者を招いて「プレサミット」を開催しました。このときまで六つの村は半信半疑で、当の丹波山村ですら半信半疑だったんです(笑)。

 丹波山村長から各村担当者に「6村長への招聘状」を手渡すセレモニーを行い、それぞれの担当者から挨拶してもらいました。トップバッターの音威子府村の方が村の実情や自らの思いを語り始めたことで、他村の担当者もそれに続き、そこで初めて一体感が生まれた気がしました。

奥田 小村さんが発案してから1年ちょっとで、その段階まで実現されたわけですね。

小村 そうですね。この場では、講師を招いた勉強会の開催や、七つの村の特産品を道の駅で販売したのですが、それはその後のサミットにも引き継がれています。第1回サミットは翌16年5月に丹波山村で開催することができましたが、各担当者が再会すると、もう同窓会のような雰囲気になっていましたね。

奥田 それはよかったですね。サミットの内容とその後の展開については、後編でじっくりとうかがいます。(つづく)
 

たばやま薬膳ピクルス

 丹波山村でとれる野菜と山梨県産のワインパミス(ワインをつくるとき、ブドウを絞った後に残る果皮や種)を使った薬膳ピクルス。地元のおばあちゃんが手づくりする人気の特産品だ。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第330回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

小村幸司

(こむら こうじ)
1965年9月、熊本県生まれ。89年3月、長崎大学経済学部卒業。旧三菱銀行勤務を経てテレビディレクターに転身し、経済、教育、海外などのドキュメンタリー番組に携わる。2014年4月、山梨県丹波山村の地域おこし協力隊として東京から移住。17年1月、NPO法人小さな村総合研究所を村民10人とともに設立した。20年4月、内閣府の地域活性化伝道師に選ばれる。