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シンクタンク時代に培ったスキルを生かして チェンソーアートの活動を開始――第328回(上)

千人回峰(対談連載)

2023/05/19 08:20

城所 ケイジ

城所 ケイジ

チェンソーアート世界チャンピオン(チェンソーアーティスト)

構成・文/浅井美江
撮影/笠間 直
2023.2.22 /チェンソーアート・ジャパンにて

週刊BCN 2023年5月22日付 vol.1969掲載

【田辺市龍神村発】樹木の切断に用いるチェンソーを駆使して、1本の丸太から作品を彫り上げるチェンソーアート。城所ケイジさんはその先駆者であり、第一人者である。世界のトップが技を競う国際大会で4年連続チャンピオンを獲得した実績を持つ。今にも動き出しそうな作品の制作に欠かせないのは卓越した技術か、それとも絶対的なデザインセンスか。その問いに対する回答は思いもよらぬものだった。答えの背景には城所さんの波乱万丈な来し方があった。
(創刊編集長・奥田喜久男)

2023.2.22 /チェンソーアート・ジャパンにて

チェンソーアーティストとして
大成するには情報戦を制すること

奥田 私は仕事柄、いろいろな方にお会いしているほうだと思うんですが、チェンソーアーティストにお目にかかるのは初めてです。

城所 まあ日本ではあまりない職業ですから。

奥田 チェンソーアートに出会われたきっかけは?

城所 1997年に林業関連の仕事で、チェンソーアートの世界チャンピオンであるブライアン・ルース氏と知り合ったことです。最初はイベントを開催したり、米国で開催される大会の視察ツアーを組んだり、企画・運営側としての接点でした。

奥田 それがいつの間にか創作する側に。

城所 そうなんです。面白そうだなと思ってやってみたら、結構できてしまって…。そのうち、ブライアンから誘われて、5年ほどペンシルバニアを中心に東海岸で「カーヴィングショウ」の仕事をしていました。

奥田 どんなショーなんですか。

城所 決められた時間内に、チェンソーを駆使して、1本の丸太から彫刻を彫り出していく様子をショーとして観ていただく。速攻彫刻ですね。

奥田 円空はなた1本で諸国を行脚していましたが、城所さんはチェンソー1本でアメリカを回っていらしたと…。そもそもチェンソーアートには何が必要なんでしょう。高い技術力か、それとも卓越したデザインセンスか。

城所 どちらも必要ではありますが、最も重要なのは情報戦を制することでしょうか。

奥田 ほお!そうきましたか。ちょっと予想していなかった答えです。

城所 あくまで私の考えですが、チェンソーアートだけで食べていこうと決心したとき、まず考えたのは業界を知ることでした。それも日本だけでなく世界的な位置づけはどうなっているのかと。

奥田 市場性を捉えるということでしょうか。

城所 そうです。チェンソーアートは70年代にカナダやアメリカで始まったとされ、欧米やオーストラリアでは定期的に大会が開かれるほど盛んですが、当時の日本ではまったくと言っていいほど無名でした。つまり市場性としてはゼロ。でも、逆にそれが面白いと思いました。

奥田 城所さんのそういう発想はどこから来ているんでしょうね。

城所 チェンソーアートを始める前のシンクタンク時代に学んだことが大きいと思います。その際、興味を持ったのはこれから市場を拡大していく戦略的なマーケティングでした。

奥田 僕はシンクタンク時代の城所さんに興味がありますね(笑)。それは後ほどうかがうとして、どんな戦略を取られたんですか。

城所 まずは知名度を上げるために、地元(愛知県新城市)にあった記者クラブを通じて大手の新聞にアプローチしました。同時に地方紙にもアピールして、どんどん記事にしてもらいました。そのうち記事を見たNHKや民放のローカル番組が取材に来るようになって。当時はどんな取材も断らずにすべて受けていましたね。

奥田 見事な広報戦略です。

城所 一方で地元にチェンソーアートの会員組織をつくって、一気に100人くらいの大きな会を組織しました。実は愛知万博に合わせて世界的なチェンソーアートの大会開催も視野に入れていたんです。

奥田 それはまた大きな取り組みを…。

城所 予算の問題とかいろいろあって、実現できませんでしたが。
 

実家の廃業に伴い上京し突然のシンクタンク勤め

奥田 そんなふうに戦略を立てることのできるキャリアは、どこで積まれたんですか。

城所 そもそも私は親がやっていた理容美容用品の卸業を継ぐつもりで、高校卒業後は大学には進まず、鹿児島にある同業の会社に3年間修業に行ったんです。

奥田 鹿児島とはまた遠くに。

城所 先端を行く取り組みをしていた同業会社がありましたので。それで家業を継いだのですが、バブル崩壊の余波などから結局廃業に…。土地も家もすべて手放すことになって、やむを得ず鹿児島時代の知り合いを頼って上京したというわけです。

奥田 いつ頃のことですか。

城所 私が24歳の時ですから、91年ですね。その知り合いは大手シンクタンクの下請けなどをしていて、それを手伝うことになりました。

奥田 卸業からいきなりシンクタンクの仕事に。

城所 そうなんです。大学も出ていないのに(笑)。プロジェクトによっては省庁の方々とも仕事をしたんですが、大学はどこか必ず聞かれるんですよ。行ってないことを伝えるとすごく驚かれて(笑)。

奥田 そうでしょうねえ(笑)。

城所 実家のことを話すとそれもビックリされて。まあ自分たちの周りにはない世界ということでしょうね。でも何か親しくしてもらって、その頃の何人かは今でもおつき合いがあります。

奥田 仕事自体はいかがでしたか。

城所 面白かったです。初めてのことばかりで何もかも新鮮で。ただ、地方のことがこんなにも東京で決められているのかと驚き、矛盾を感じたこともありました。行ったことのない町村の行政計画の立案とか…。

奥田 大きな転機でしたね。そこにはどのくらい勤められたのですか。

城所 3年弱でしょうか。あっという間の時間でした。

奥田 でも、先ほどの情報戦略の立て方など、城所さんの知的戦略の基盤はその3年間で得たものですよね。

城所 おっしゃる通りです。世界チャンピオンになれたのも、どうやったら勝てるかを徹底的に情報分析できたからだと思いますね。

奥田 その後はどうされたのですか?

城所 愛知県の山間地域にIターンして、地域のシンクタンクの主任研究員として、林業の振興に関わる仕事をしていました。ブライアンに出会ったのもその仕事の一環です。

奥田 そこから城所さんの人生にチェンソーアートが登場する。また転機が訪れましたね。ところで、ホームページを拝見すると、さまざまな作品とともに参考価格も明記されています。

城所 はい。うちは木の太さと高さで価格を決めていますので。ただし、龍に関しては時価なんです。

奥田 時価とは?

城所 ほかの対象物はだいたいデザインできるんですが、龍だけは実際に彫ってみないとわからないんです。

奥田 それはもしかして、木の中に龍が見えてくるとかそういうことですか。

城所 その通りです。本当に不思議なんですが、龍だけは私がデザインするのではなく、実際に木に見えたラインに沿って彫らせていただく感じなんです。

奥田 そのことを感じられたのはいつですか。

城所 ここ(龍神村)に越してきて間もなくのことです。和歌山市の伊い太た祁き曽そ神社に奉納する龍神様を彫らせていただくことになり、木に向かい合った時に中に龍が見えました。

奥田 それは興味深い。後編ではぜひそのあたりの話も聞かせてください。
(つづく)
 

アメリカ時代の城所家だった
モーターホーム

 5年間のアメリカ巡業時代、城所さん夫妻がマイホームとしていた1台。生活
用具一式を詰め込んでペンシルバニアを中心に、ニューヨーク、ミシガン、オハ
イオなどで開催されるショーに出演していた。時折雨漏りに悩まされることもあっ
たという。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第328回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

城所 ケイジ

(きどころ けいじ)
 1967年、愛知県豊橋市生まれ。高校卒業後、3年間の修業を経て家業を継承。91年、廃業に伴い東京の民間シンクタンクに勤務。94年、愛知県設楽郡にIターン。地域シンクタンクの主任研究員を経て、97年、チェンソーアートの世界的チャンピオンのブライアン・ルース氏との出会いをきっかけにチェンソーアーティストの道へ。2003年、チェンソーアート・ジャパン設立。04年、和歌山県田辺市龍神村に移住。05~08年、チェンソーアート国際大会で4年連続チャンピオン獲得。14年、山中に捨てられたと思われる犬を保護し、里親との縁結びを行う「どらごんワンコの会」を夫妻で設立。