自分の才能は優れたシステムをつくることだけだと思っていた――第326回(下)
王 健(筆名・高山流水)
芝ソフト 代表取締役
構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2023.2.15 /東京都港区のオフィスにて
週刊BCN 2023年4月24日付 vol.1966掲載
【東京・赤坂発】長年、取材の仕事をしていると、「これはオフレコですが」とか「これは書かないでください」という言葉に出会うことがしばしばある。もちろん、インサイダー取引につながる情報などは、取材者として自制するのは当然のことだ。でも、それ以外の「書かないで」のほとんどは、実に興味深いネタなのだ。「書きたい」と「書けない」のせめぎ合い。王さんが強く制止することはないが、今回もちらりと取捨に迷う話があった。いつもコーナーぎりぎりを狙う気概を忘れないようにしたい。
(創刊編集長・奥田喜久男)
16歳で名門大学に入学し20歳で政府機関入り
奥田 王さんの幼い頃の話を聞きたいのですが、お生まれは中国のどちらですか。王 浙江省です。上海の南に位置し、かつて春秋時代には「越」の国があったところです。母はここの出身で、父は山東省出身です。
奥田 お父さんはどんな方でしたか。
王 父は16歳で人民解放軍に入り、揚子江を渡って国民党と戦った経験があります。その後、共産党が政権を国民党から奪取すると、父は地方の共産党幹部になりました。
父は古代の本が好きで、家にそうした本を持ち帰ってきてくれました。そのため、それを読んだ私も、そうした古典が好きになりました。
奥田 古代の本というと、いつ頃のものですか。
王 『三国志』の時代や、そのもっと前の春秋戦国時代の話ですね。
奥田 春秋戦国時代といったら、紀元前ですものね。王さんは子どもの頃から、そうした古典の教養に触れてきたのですね。そこから王さんはコンピューターの道に進まれるわけですが、どんな経緯があったのですか。
王 私は1978年、16歳で復旦大学のコンピューターサイエンス学部に入学し、20歳のときに卒業しました。
奥田 16歳で大学入学ですか!早いですね。そして、78年のコンピューターサイエンスといったら、時代の最先端を行く学問ですね。当時からコンピューターに関心があったのでしょうか。
王 コンピューターのことは、何も知りませんでした。何校か受験したなかで、最初に合格し、家からも近い復旦大学に行こうと決めたのです。
奥田 そこではどんな勉強をされたのですか。
王 米イリノイ大学の教科書を使って、コンピューターを学びました。具体的には、アルゴリズム、数学、物理など、理科系の分野を一通り勉強しました。
奥田 当時のコンピューターはどんなものを使っていましたか。
王 ハードウェアの機種はまったく覚えていませんが、まだ、穴の開いた紙テープの時代でした。PCが広がったのは84年頃ですから、私が大学を卒業した後のことですね。
奥田 大学を卒業してからは、どんな道に?
王 北京の中央弁公庁に入りました。中央弁公庁は中南海にあるんですよ。
奥田 まさに中国の国家権力の中枢部。毛沢東の家があるところですね。
王 そうです。そこで私は、中央と地方との通信の安全を保証する秘密通信の仕事をしました。
奥田 秘密通信?
王 つまり、情報漏洩することなくコミュニケーションをとるための仕事です。そのため、上司と一緒に全国の省を回って情報収集をし、軍隊に派遣されたこともありました。
奥田 いまでいう情報セキュリティの仕事とはいえ、かなりセンシティブな場に身を置かれていたのですね。
外国人であるにもかかわらず
日銀の人事給与システムの開発に携わる
奥田 それで日本に行くきっかけは?王 私は24歳のときに結婚し、その2年後、88年に日本にやってきました。日本に行きたいというのは妻の希望でしたが、私は埼玉大学の大学院に通うかたわら、ソフトウェア会社に勤務し、その後、富士通のスパコン「VPP500」の開発にも携わりました。妻の知り合いの日本人社長から、コンピューター専攻ならうちで働かないかと言ってもらい、まだ日本語も話せず、他の留学生がアルバイト生活で苦労するなか、とてもありがたかったですね。
奥田 スパコンの開発ではどんなことを?
王 OSの開発です。富士通の沼津工場には5年ほど通いました。
奥田 それで、97年に芝ソフトを設立されますね。
王 はい。この年、NECを通じて横浜銀行の人事給与システムの開発に携わりました。このときは、私たちが外国人であるにもかかわらず上流工程の基本設計までやらせてくれたのです。
奥田 それは、実力を認められた証しですね。
王 その後、東京都民銀行、三井住友銀行、そして日本銀行のシステムもつくりました。日銀の人事給与システムでは、元請けのNECは品質優良表彰を受けましたが、事前にNECから日銀に対して、外国人がつくっても構わないかと確認したところ、「よいシステムをつくれるならどこでもいい」という答えだったということです。
奥田 日銀でさえ、王さんたちの優秀さを認めて信頼してくれたのですね。
王 当時の私やチームの技術者たちは若かったこともあり、自信過剰なところがありました。いまになって考えると、無謀とも言えます。もし失敗したら、責任を負えませんから。まるで、あの「元気があれば、何でもできる」との名言のようでした。でも、うまくシステムをつくること以外に才能はないと思っていましたし、実際に失敗したこともありませんでした。
奥田 それだけの実力をもってしても、オフショア開発をあきらめざるを得ないような、外的要因に翻弄されることもあるのですね。
ところで、最近、王さんは日本語で本を書かれましたが、それについて少しお話しいただけますか。
王 コロナ禍で時間ができ、また血液構造分析システム(前号参照)の論文が雑誌に掲載できなかったことで、私が生きているうちに、なんとかこれについて書き残したかったというのがこの『流水筆談』を執筆した理由です。
奥田 あえて日本語で書いたのは?
王 当初、中国で中国語の本を出そうと思いました。けれども、共産党の意に沿わない記述は修正されてしまう恐れがあります。そこで、日本で日本語で出版すれば、自分の好きなように書くことができると思い、日本語での執筆に挑戦しました。
奥田 なるほど、だいぶ苦労されたでしょう。
王 自分の書いた日本語が正しいのかどうかわからない、うまく表現できないという思いは常にありましたね。何人かの日本語ネイティブの人に読んでもらい、誤字や表現の誤りを指摘してもらいましたが、奥田さんから見てどうですか?
奥田 ちゃんとした日本語になっているし、内容も面白いですよ。でも「健康と医療の話」のところだけは少し難しかったですね。
王 その「健康と医療の話」が、いちばん書きたかったところだったんです。しかし、これだけでは分量が少なくて本にならないので、いろいろと書き足して一冊の本にしました。「健康と医療の話」の節は、ぜひ多くの方々に読んでもらいたいと思っています。私の死後30年経った頃に初めて理解されると覚悟しているので、もし私が生きている間に理解してくれる人がいれば何よりうれしく思います。ちなみに、ペンネームの「高山流水」は、春秋時代の曲名で、琴でこの曲を弾いてもほとんどの人に理解されないなか、唯一それを理解してくれた人が現れた逸話から、人間同士の共感を得る難しさを物語っています。
奥田 そうか、ここが“あんこ”の部分だったのですね(笑)。でも、王さんのバイタリティや教養はまったく衰えていないと感じます。王さんの次のチャレンジに、心から期待しています。
こぼれ話
友人の王健さんから書籍が届いた。手に取ると自費出版っぽい。書籍名は『流水筆談』。著者は高山流水。そうなんだ。これが王さんのペンネームなんだ、と理解する。どんな意味なんだろうか。高い山から水が流れる。読んで字の如く、そんな意味なのだろう。高山を日本語流に“たかやま”と読むと、なんとまあ殺風景な感じがする。やはり“こうざん”と読みたい。いやいや、中国語ではどう読むのか。「ガオシャン リュウシュイ」。日本語になんとなく似ているから嬉しくなる。王さんはどんな思いで、高山流水をペンネームにしたのか。知りたいな。ペンネームの由来はなんだろう。この四文字に意味があるのかどうか。ググってみよう。
まあビックリ。中国の春秋時代、琴の名手の伯牙(はくが)が高山を思い浮かべながら演奏すると、鍾子期(しょうしき)は「泰山の如し」と言い、流れる川を思い浮かべながら演奏すると「江河の如し」と言ったという故事。素晴らしい演奏や音楽のたとえ。または、自分のことを心から理解してくれる親友のこと。または、けがれのない澄んだ自然のこと(出典『「列子」湯問』)。なんと深い意味をもった言葉をペンネームに選んだものだ。王健さんに会ってみよう。
久しぶりの再会だ。王さんの様子がどうも変だ。なんだか元気がないぞ。話すうちに私の古い友人であった奥さんの魏芝さんが亡くなって以来らしい。「ボクは魏芝がいて仕事をする気持ちになるんだ」と。日本的には「女々しいな~、王健さん」となる。亡くなられてから5年は過ぎているはずだ。王健さん夫婦と、魏芝さんの母校である成都の電子科技大学を訪れたのは2012年6月27日。ちょうど卒業式にも遭遇した。魏芝さんの知り合いたちは学科のトップを占めていた。夕食をご馳走になった。私の苦手な食材ばかりで、手がつけられなかった思い出がある。私は水餃子と搾菜(ザーサイ)が好物。その後、5年ほどして他界。そこから王健さんの元気がなくなり始めたようだ。そこにコロナ禍があって、家から出られない状態が続く。そこで執筆となった。まあ、わからないでもないけれど、元気を出してほしいな。そうだ!『千人回峰』に登場していただこう。
中国に行くと、時折、「大人」だと思うような人物に出会うことがある。念のために言えば、私のなかでの“たいじん”である。膨大な知識をひけらかすのでもなく、話をするうちに、中国の古典、歴史の中に引きずり込まれる。さらに話し込むと、宇宙空間のように果てしなく広がる心の中に包み込まれるような気分になる。そんなことって感じたことありませんか。今回の対談が、王さんの元気回復のきっかけになれば嬉しいな。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
王 健(筆名・高山流水)
(Wang Jian)
1962年、中国浙江省生まれ。78年9月、復旦大学コンピューターサイエンス学部入学。82年7月、同校卒業後、中央弁公庁に就職。88年6月、来日。埼玉大学大学院理工学研究科入学。学業のかたわら、日本のソフトウェア会社に就職し、スーパーコンピューターの開発に携わる。94年3月、埼玉大学大学院修了。97年3月、芝ソフト(東京)の創設メンバーとして専務取締役ゼネラルマネージャーに就任。2001年、北京芝華安方体育文化の設立に参画し、取締役に就任。02年、上海芝遠商務諮詢の設立に参画し、総経理(社長)に就任。06年、H&T(当時、芝メディア)の設立に参画し、代表取締役に就任。 22年、『流水筆談』を出版。