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少年時代の好奇心と探究心が人生と仕事の核をつくり上げた――第324回(上)

千人回峰(対談連載)

2023/03/17 08:05

大橋太郎

大橋太郎

日刊電波新聞 電子ホビー入門アドバイザー 「日刊電波新聞」特任ライター

構成・文/小林茂樹
撮影/笠間 直
BCN社長/奥田芳恵 奥田喜久男 大橋太郎(撮影) 電波新聞社長/平山勉

週刊BCN 2023年3月20日付 vol.1961掲載

 【東京・練馬発】今回の『千人回峰』に登場してもらうのは、いまから52年前、電波新聞社で出会った新卒同期入社の大橋太郎だ。今回に限り、通常の対談取材とは異なり「タメ口・呼び捨て」で紙面も構成させてもらった。同期生ということで、ご了承いただきたい。ただしこの千人回峰には、親しい間柄ゆえ登場してもらうわけではない。昨春、電波新聞社からフリーランスに転じた彼の職業人生は、わが国のIT業界史の一断面であると思ったからだ。昔話に興じるだけでなく未来につながる話にしたいと願い、この対談に臨んだ。
(創刊編集長・奥田喜久男)

BCN社長/奥田芳恵 奥田喜久男 大橋太郎(撮影) 電波新聞社長/平山勉

7歳で秋葉原に通い始め
中2でアマチュア無線試験に合格

奥田 まさかこの歳になって、同期入社の太郎にインタビューすることになるとは思わなかったよ。

大橋 そうだね。昔は背中合わせで仕事をしていたんだもんな。

奥田 おれは『電子と経営』、太郎は『ラジオの製作』で、編集部が隣り合っていた。実は、東京に大橋太郎というすごい奴がいると聞いたのは、入社前の大学4年生、いまでいうインターンシップのときのことだった。

大橋 インターンシップといえば聞こえはいいけど、新聞の拡張員をやらされたんだよな。電器店などに飛び込んで、電波新聞をとってくださいと。

奥田 東京採用の新人で1番をとったのが太郎で、おれは大阪採用のメンバーで2番だった。

大橋 お互い、素質があったんだな(笑)。

奥田 ところで、この業界のレジェンド的な存在で、いまだに現役のライターも続けている大橋太郎という人間は、どのような少年時代を過ごしてきたんだろうか。

大橋 新宿にある戸山ハイツという都営住宅で育って近所の幼稚園に通ったものの、とても先生の手に負えない子どもで、いまでいう発達障害だった。それで、西武池袋線のひばりヶ丘にある自由学園に通うようになった。

奥田 自由学園なら、そういう個性の強い子にも対応できたということ?

大橋 そうだね。お金持ちの子が多くて学費は高かったようだけど、とても自由で面白い学校だった。それで、秋葉原には7歳のときから通っていたんだ。

奥田 7歳?!

大橋 最初はラジオの組み立てに興味を持っていたんだけど、同居していた叔父(その後、科学者となり、芸能山城組の組頭山城祥二としても活躍する大橋力氏)が秋葉原に連れて行ってくれた。多才な叔父はとても面白い人で、いつも後をついていっていたね。

奥田 お父さんは?

大橋 応用物理学者で、イースト菌の培養を効率的に行う研究をしていた。そのせいか、家の中にも試験管がたくさんあった。

奥田 好奇心をかきたてられるような環境で育ったというわけだね。

大橋 たしかに環境には恵まれていた。いまでも購読しているけど、親が『子供の科学』(誠文堂新光社)をとってくれて、植物、鉱物、天文、気象、ラジオ、無線などいろいろなものに興味を持つようになったし、クリスマスプレゼントに顕微鏡をもらったこともある。なかでもアマチュア無線との出会いは、とても大きかった。

奥田 そういえば、昔、何メガサイクルだと海外まで電波が届くといった話を聞かされたことがあるな。

大橋 アマチュア無線に関するものだったら、何にでも興味を持った。小学校2、3年生の頃、まだ漢字もろくに読めないのに、中学生になったら免許をとろうと、難しい本を買って勉強したんだよ。通っていた自由学園にはアマチュア無線をやっている高校生の先輩もいたんだけど、小学生の自分も同等に扱ってくれていろいろ教えてくれた。そういう意味でも、環境に恵まれたね。

奥田 それで無線の免許は?

大橋 中2のときに合格して、中3になって免許申請をしたんだ。アマチュア無線も自作の時代だから、高校生になったらアルバイトをして、真空管などの部品を買ってきて無線機をつくった。パイプを買ってきて、アンテナも自作した。学校に使われていない暗室があったんだけど、そこに機材を持ち込んで無線室にしてしまい、校内の竹林の竹で長いアンテナを立てて、昼休みには「ハロー、CQ、CQ……」とやっていたわけだ。

奥田 まるで、学校に自分の秘密基地をつくっちゃったみたいだね。
 

やりたいことにひたすら没頭した
自由学園での日々

奥田 アマチュア無線のほかに、学生時代に打ち込んだことはあるの?

大橋 母がピアノ教室の先生をしていたので、幼稚園の頃から聴音(和音)とかソルフェージュ、それに小5でやめてしまったけれどヴァイオリンも習った。その影響もあって音楽は好きだったね。

奥田 音楽の素養もあるんだね。

大橋 それで高1のとき、ジャズのカルテットを組もうということになって、ドラムを担当したんだ。ドラムセットはないので、学校にある大太鼓をバスドラムにするなどして工夫したけれど、ハイハットだけは都合がつかなかったので浅草まで中古品を買いに行ったりしたなぁ。

 それからオーディオにも夢中になったんだけど、自由学園の6年先輩にすごい人がいた。日本で初めて商用のデジタル録音を実現した穴澤健明さんという方で、当時、オーケストラの演奏を聴いて、そのままスコアを書ける人だった。

奥田 たしかにすごいな。そんな人がいるんだね。

大橋 あと、高校時代には夏休みや春休み、よくバイクで旅に出かけた。自由学園には全国から生徒が集まっているから、学校の名簿を片手に「今晩泊めてくれない?」と。

奥田 学校の勉強は知らないけど、充実した学生生活を送ったんだね。ところで、その頃は将来何になりたかったの?

大橋 無線通信士か新聞記者だね。もともと文章を書くことが好きで、小4のとき、初めてつくったゲルマニウムラジオの組立記事を、立体配線図付きで書いていたんだ。いまやっていることと同じなんだよ。

 自由学園での生活はとても楽しかったけれど、幼稚園から高校までほとんど同じ交友関係だったわけで、このまま社会で通用するか不安になった。そこで大学は外に出ようと初めて受験勉強をして、東海大学の文学部広報学科に進んだんだ。

奥田 ずっと同じ世界にとどまっていてはいけないと……。

大橋 うん、でも、アマチュア無線や旅で忙しくて、あまり大学には行かなかった。それで3年生のとき、久々に行ったキャンパスで友達から「太郎ちゃんは就職決まったの?」と聞かれたんだ。就職のことなどまったく考えていなかったんだけど、友達はもうみんな就職先が決まっていた。それで慌てて就職課に行き、エレクトロニクス関係の求人を調べたら、電波新聞社と角田無線電機という秋葉原の老舗しかなかった。

奥田 そういう経緯で電波新聞を受けたんだ。

大橋 それで、面接のとき「(私がアマチュア無線局「JA1NZH」の主であることを知った面接官から)なんだNZHか」といわれたんだよ。私はけっこうアマチュア無線の世界では有名で、当時、電波新聞が『HAMライフ』というアマチュア無線雑誌を創刊するタイミングだったから、会社としても私のような人材が欲しかったんだろうね。

奥田 次は、会社での奮闘ぶりをじっくり聞かせてもらおうかな。 (つづく)
2022.12.22 /東京都練馬区のご自宅にて

大橋さんのアマチュア無線技士の免許

 貼られている写真は、昭和38年、中学3年のときの大橋さんの凛々しい姿。「生意気な顔してるでしょ」とは、74歳を迎えたご当人の言。この免許が、その後の人生に大きな影響をもたらしたことは間違いないだろう。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第324回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

大橋太郎

(おおはし たろう)
 1948年12月、東京生まれ。自由学園高等部を経て、東海大学文学部広報学科卒業。71年4月、電波新聞社に入社。『ラジオの製作』編集長、『マイコンBASICマガジン』初代編集長などを歴任する。現在は、電子ホビー入門アドバイザー、「日刊電波新聞」特任ライター。子ども向けの電子工作・プログラミング教室を運営するKidsVentureなどの特別顧問も務める。