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30年以上にわたるテレジンの子どもたちへの思いは これからも語りつがれていく――第323回(下)

千人回峰(対談連載)

2023/03/10 08:05

野村路子

野村路子

テレジンを語りつぐ会 代表 作家

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子
2022.12.15/埼玉県川越市のご自宅にて

週刊BCN 2023年3月13日付 vol.1960掲載

 【埼玉・川越発】1995年、野村さんは『写真記録アウシュヴィッツ』の編集に取り組んでいた。米ワシントンのホロコースト博物館やイスラエルのヤド・ヴァシェム(ホロコースト記念館)にも足を運び、現地で資料を集めるなど、忙しくハードな日々が続いていたのである。ところが、ある日突然、目が見えなくなった。サルコイドーシスという難病が、野村さんを襲ったのだ。幸い、ステロイドの眼球注射などによって視力を取り戻すことができ、数年前からはその他の症状も消失した。「そのとき死んでいたかもしれないのだから、あとは自由にやればいいと思い、かえって気が楽になった」と軽やかに語る姿に、とても強い意志を感じた。
(創刊編集長・奥田喜久男)

2022.12.15/埼玉県川越市のご自宅にて

弁護士の父とけんかできるような
リベラルな家庭に育つ

奥田 現在、野村さんは「テレジンを語りつぐ会」の代表としてご活躍中ですが、テレジンのことを知る前はどんな仕事をされてきたのですか。

野村 学生時代はマスコミ志望だったのですが、当時、ほとんど女性の採用はなく、大学卒業後は外務省に2年ほど勤めました。

奥田 外務省といったら、とても立派な就職先ではないですか。

野村 外交官試験ではないのですが、幸い採用されまして、待命中の大使の秘書などをやっていたのですが、ちょうど60年安保の時期で、外務省の前に学生のデモ隊が来ているのですね、そこには友人の顔も見えるのですよ。でも、私は赤いじゅうたんのあるフロアにいるわけで、ちょっと苦しくなって……。

 そんなとき、私が学生時代に同人誌に書いたものを読まれた方から、デザイン会社でコピーライターをやらないかというお話をいただきました。それをきっかけに外務省を辞めて、転職したのです。

奥田 そこから文筆の世界に入られたわけですね。学生時代にも文章を書かれていたとのことですが、そのほかにはどんなことをされていましたか。

野村 早稲田には学生劇団がたくさんありました。今はなくなってしまったようですが、『素描座』という劇団で活動していました。そこでは、テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーなど、主にアメリカの劇作家の作品を上演していました。

奥田 劇団での役割は、役者ですか裏方ですか。

野村 演じるほうでした。「ガラスの動物園」の主演を務めたんですよ。

奥田 おお、かっこいい! ということは、学生時代もだいぶ活発なタイプだったのでしょうね。

野村 おとなしくはなかったですね。

奥田 育ったのはどんなご家庭でしたか。

野村 自由な家で、やりたいことができましたね。あと、よく父とけんかをしたことを覚えています。

奥田 けんかですか。お父さまはどんな方でしたか。

野村 父は会津若松出身で、父親、つまり私の祖父を早く亡くしたことから、貧しい少年時代を送ったようですが、篤志家の援助があって中央大学で学び、弁護士になった人です。

奥田 そんな立派なお父さまとけんかを……。

野村 けんかというか、議論なのですよ。文学論を戦わせることもありました。明治の人ですからワンマンで、なんでも母にやらせるような人でした。戦時中、石川達三の『生きてゐる兵隊』が当時の新聞紙法により発禁となったときに、その弁護を請け負っているので、いわゆる「人権派弁護士」という評価でしたから「身近かなお母様の人権は無視しているニセ人権派よ!」と言ったりして……。

奥田 すごいお嬢さんだ!

野村 でも母によると、私とけんかするのを父は楽しみにしていたようでした。そして、父と私は考え方がそっくりだとよく言われましたね。

奥田 やはり、会津の反骨精神を引き継がれているのですね。弱者に対するまなざしは共通しているように思います。

野村 父は、私と10歳離れた弟が弁護士になって間もなく亡くなったのですが、弟は「もしお父さまが生きていて、お姉さまのテレジンの話を聞いたら喜んだだろうね」と話してくれました。

 そうそう、学生時代、鹿児島に旅行に行くと言ったら「薩摩に行くのなら帰ってくるな」と、烈火のごとく怒ったのです。いつの時代かというような話ですよね。

奥田 筋金入りの会津の人ですね(笑)。
 

9.11に対する
特別な思い

奥田 1991年4月に「テレジン収容所の幼い画家たち展」を初めて開催されてからもう30年以上ということですが、テレジンとの関わりはまさに野村さんのライフワークといえますね。

野村 今年(2022年)も9月11日に、川越市制100周年記念行事の一環として、私の活動30周年記念の講演会とコンサートを開催しました。会場のウェスタ川越大ホールの定員は900人ですが、それがほぼ満席になるほどの盛況でした。

奥田 それはすばらしいですね。ところで、このコンサートはいつ始められたのですか。

野村 テレジンの子どもたちが遺した詩にも光を与えたいと考え、96年に始めました。

 朗読を担当してくださった丸山詠二さんは惜しくも亡くなられましたが、ギターの中村ヨシミツさん、ヴァイオリンの平松加奈さん、歌の西山琴恵さんと三原ミユキさんは、最初からずっと一緒にやっているメンバーです。

奥田 毎年9月11日にコンサートを開かれるとのことですが、この日に何か思い入れがあるのでしょうか。

野村 2001年に海外での最初で最後のコンサートをテレジンとプラハで開催したのですが、プラハに着いた日が9月11日だったのです。

奥田 ということは、ニューヨークで同時多発テロが起こった日!

野村 街じゅうがピリピリした雰囲気で、ホテルのロビーに設置されたテレビの前は人でいっぱい。最初は何が起きたのかわかりませんでした。

奥田 実は、私はそのときニューヨークにいて、その惨状を目の当たりにしたのですが、お互い、たいへんなタイミングで海外に滞在していたわけですね。
画像左から 凱旋門の向うに明日は見えず(2001.9.11  9:32a.m.)
ITは死なず(2001.9.11  10:03a.m.)
人の儚さ(2001.9.11  10:32a.m.)
撮影:奥田喜久男

野村 このとき、私たちは差別や偏見をなくすためにこのコンサートを開いたのに、そうした差別や偏見によってこんな事件が起こってしまったという悲しい現実に直面しました。

 そこでコンサートの仲間全員、さきほどお話ししたメンバーが、これからは毎年9月11日にコンサートを開こうと約束したんです。会場の都合でできない年もありましたが、極力この日に行うようにしています。

奥田 今後は、どのような活動を考えておられますか。

野村 自分の年齢のことを考えると、いつ終わりになってもしかたないと覚悟しています。ただ、どう終わらせるかが問題ですよね。展覧会は続けられますが、コンサートでの朗読は止めようかと……。私抜きでコンサートをどんなふうにやるか考えています。いちばんの問題は講演会活動なのですが、これは他の人にはできないことですから。

奥田 野村さんが一線から退かれても、テレジンのことは語りつがれなければなりませんものね。

野村 そう、学校などで講演をして、後日その感想文をもらうと、うれしくて止められなくなっちゃうんです。

奥田 じゃあ、引退はまだまだ先ですね(笑)。これからもお身体に気をつけて、語り続けていただければと思います。
 

こぼれ話

 目は口ほどにものを言うーー。

 野村路子さん宅の呼び鈴を押す。玄関のドアが開く。背中が少し丸い。初対面の私たち編集クルーを一瞥する。「ドキッ」とする鋭さだ。きつい目線でなく、身体を見通すような目力だ。きっと、路子さんはレントゲン撮影のように人を透視し続けてきたのだろう。目力には、生まれもった色合いとパワーがある。しかも、鍛えるほどに変化する代物でもある。体力とも異なる種類の力だと思っている。目線が合った瞬間からインタビューは始まった。居間の椅子に腰掛けながら周囲を見回す。棚には路子さんの生きてきた“時”が並んでいる。お気に入りの品をそのつど並べるうちに、頭の中が順不同な形となって姿を現した、といった様相だ。最初の一品が棚に置かれたのはいつ頃だったのだろうか。

 テレジンの地を初めて訪れた1989年に始まるのだろうか。人の好みは年月を経て、変わるものとそうでないものがある。それは好みだけではない。生き様を支える“意志”もそうだ。路子さんの生き様は弁護士で人権派と言われた父親の福田耕太郎さんにとても似ている。小さい頃は父と口論をしたという。お二人とも弁が立つから、親子の域を超えていたのかもしれない。その場に居合わせたら、ハラハラしたかもしれない。歳を重ねてみると、路子さんは父親の歩いた道を歩いていることがわかる。似るものなんだね。不思議だ。

 生き様を支える意志は、脳への刺激で鍛えられる。“ガツン”といった身体中が打ちのめされるような刺激だ。路子さんは、一枚の絵に刺激された。じーっと見る。黒く宙吊りになった人らしいものがある。よ~く見ると、首を吊られた人である。描いたのは子どもだ。署名がある。彼らは囚人番号で呼ばれるから、一枚の絵に実名を記して残した。子どもたちは旅立ち、絵が残った。その絵を見て路子さんはガツンと衝撃を受けた。ある時、私も似たようなガツンを体験した。2001年9月11日、いわゆるNY911だ。その現場に偶然に立ち会った。見た、撮った、残した。『人の儚さ』三部作だ。この写真を撮って後、数回講演をした。しかし、ある時からやめた。NY911の話をする自分のテンションが常軌を逸するからだ。

 そんな私と違い、路子さんはテレジン収容所で受けた衝撃を一人でも多くの人々に知ってもらいたいと、息長く“語り部”を続けておられる。すごいと思う。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第323回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

野村路子

(のむら みちこ)
 1937年、東京生まれ。都立白鴎高校を経て、59年、早稲田大学第一文学部仏文科卒業。コピーライター、タウン誌編集長などを務めた後、新聞・雑誌にエッセイやルポルタージュを執筆。89年、プラハでテレジンの子どもたちの絵と出会い、その事実を伝えようとチェコ大使館やユダヤ博物館などと交渉し、91年から日本で「テレジン収容所の幼い画家たち展」を開催。生き残りの人たちへのインタビューを重ね、展覧会、執筆、講演活動を続けている。『テレジンの小さな画家たち』で産経児童出版文化賞大賞を受賞。ほかに『15000人のアンネ・フランク』、『写真記録アウシュヴィッツ』(全6巻)、『生還者たちの声を聴いて』など著書多数。学校図書発行の小学校6年の国語教科書に『フリードルとテレジンの小さな画家たち』が掲載されている。また、子どもたちの詩をもとにつくっ
た『朗読と歌によるコンサート《テレジン もう蝶々はいない》』を全国各地で上演し、2001年にはプラハ、テレジンでも上演した。