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アウシュヴィッツで未来を断たれた人々のことを決して忘れてはならない――第323回(上)

千人回峰(対談連載)

2023/03/03 08:10

野村路子

野村路子

テレジンを語りつぐ会 代表 作家

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子
2022.12.15 /埼玉県川越市のご自宅にて

週刊BCN 2023年3月6日付 vol.1959掲載

【埼玉・川越発】野村路子さんは、その仕事のキャリアのほとんどを文筆の世界で過ごしてきた。夫君は全国紙の記者なので、社名を出せば誰にでも会える。けれども、小さなメディアで取材する立場ではそうはいかない。タウン誌をやっていた当時、居留守を使われて、いたくプライドを傷つけられたこともあったそうだ。そこで野村さんは決意した。「自分の名前で仕事をし、生きていく」ことだった。手がける記事をすべて署名入りにしたら、他のたくさんのメディアから声がかかった。詳細は本文に譲るが、ユダヤ人の子どもたちに「名前の大切さ」を説いたフリードル先生の姿勢に重なるような気がした。
(創刊編集長・奥田喜久男)

2022.12.15 /埼玉県川越市のご自宅にて

テレジンの子どもたちの絵との
偶然の出会い

奥田 実は、野村さんの経歴やいままでの活動についてお聞きするまで、私はテレジンという地名を知りませんでした。

野村 それは私も同じです。1989年に、まだ共産圏だったチェコスロバキア(現チェコ)など東欧の国々を旅したとき、偶然、この地のことを知りました。

奥田 なぜ、共産圏だった国々に?

野村 次女の大学卒業記念の旅だったのですが、彼女は学生時代に一人で、イギリス、フランス、ドイツなど西側の国へは旅をしていました。だから、一人では行けないような国に行ってみようということで、当時のソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーを巡る旅に娘と二人で出かけたのです。

奥田 お嬢さんとの楽しい旅の途中で、その後の野村さんの人生に大きな影響を与えるものに出会われたのですね。

野村 ポーランドではアウシュヴィッツへ行ったので、その後、チェコの首都プラハには観光気分で赴いたのですが、私たちが到着した2月22日はチェコスロバキアの社会主義宣言記念日でした。そのため、街はデモ隊でいっぱいで、教会などの見学をあきらめざるを得ませんでした。

 仕方なくホテルに戻ろうとしたのですが、その途中、ユダヤ人墓地の隣りに小さな建物がありました。自由に入れる建物だったので足を踏み入れてみたのですが、そこに子どもが描いた絵が展示されていました。日本の小学校の教室にあっても、おかしくないような普通の絵でした。だからたいした関心もなく見ていたら、驚くような絵に出会ってしまったのです。それは、今、首を吊られようとしている人を描いたものでした。その人の胸には、ダビデの星が描かれていました。それで、今、私が見ているのは、普通の子どもの絵ではないと気づいたのです。誰が描いたのか、なぜ、今、ここに展示されているのか、知りたくて、係の女性に聞こうとしたのですが、英語が通じないのですよ。

奥田 英語が通じないとなると、何を聞くにしてもハードルが高くなりますね。

野村 当時のチェコでは、何かの表示や説明は、ロシア語、チェコ語、スロバキア語だけだったと思います。それで仕方なく外に出て、道行く人に声をかけたのですが、なかなか立ち止まってもらえませんでした。そうこうするうちに、ようやく英語がわかる人に出会い、事情を話すと、ユダヤ人街の事務所がある別の建物を教えてくれたのです。

奥田 やっと手がかりが見つかったのですね。

野村 そこにも英語を話せる人がいたのですが、「パンフレットがありますよ」と、チェコ語のパンフレットを出してきたのです。チェコ語は読めないと言うと、スロバキア語やロシア語のものを出してきます。こちらも読めませんから、他の言語のものはないかと尋ねると「ちょっと待って」と、事務所の奥に行ってなにやら探しています。そしてしばらくして出てきたのが、フランス語版のパンフレットでした。
 

大使館にかけ合い
日本での展覧会を実現!

奥田 そうか! 野村さんは仏文科卒ですものね。

野村 もし、ここで出てきたのがドイツ語版だったら、私はあきらめていたかもしれません。でもフランス語なら読めると。ホテルに戻り、辞書を引きながらそのパンフを一晩かけて読みました。そこで初めて、かつてテレジンという収容所があったこと、そこで起きたことを知ることになるのです。

奥田 そのフランス語のパンフが、その後の野村さんの行動を後押ししたのですね。

野村 そうですね。テレジンはプラハから60キロほど離れた小さな街で、1941年から45年までの間、ユダヤ人収容所が設けられていました。ここに送られたユダヤ人はおよそ14万4000人。そのうち、3万3000人が病気、飢え、ドイツ人による暴行や拷問などで命を落とし、約8万8000人がアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られ、ガス室で殺されました。テレジン収容所に送られた子どもは1万5000人、そのうち、生還できたのはわずか100
人だったとわかりました。

奥田 そのむごい事実を、フランス語のパンフを読みといて初めて知ったのですね。ということは、野村さんが最初に見た子どもが描いた絵は?

野村 そこに収容されていた子どもたちが描いたものだったのです。テレジン収容所では子どもたちは親から離され、《子どもの家》で生活させられていました。毎日、本当にわずかな食事しか与えられず、大人と同じように働かされ、栄養失調で倒れたり病気になると、もう労働力として使えないと、貨物列車でどこかへ運ばれて行ったのです。その
行き先がアウシュヴィッツだったのですが、もちろんその頃は、そんなことは知りません。ただ、恐ろしいところへ送られるという不安や恐怖で、子どもたちは笑顔など忘れて暮らしていたというのです。そこで、子どもたちの笑顔を取り戻そう、子どもに希望を失わせてはいけないと大人たちが立ち上がり、収容所内に学校をつくったのです。そこで絵
を教えたのがフリードル・ディッカーという女性芸術家でしたが、結局、彼女もアウシュヴィッツに送られてしまいました。

奥田 うーん……。

野村 ドイツの敗戦によって収容所は解放されましたが、そこに4000枚の絵と数十枚の詩の原稿が残されていました。その絵は、現在、プラハのユダヤ博物館に保管されています。

奥田 パンフを読み、一夜明けて、どんな気分でしたか。

野村 いたたまれない気分で、もう一度、前日に見た絵を見に行きました。すると、ほとんどの絵に子どもの名前が書かれていました。フリードル先生が、ドイツ兵から番号でしか呼ばれない子どもたちに対して、親が愛情をもってつけてくれた自分の名前を絵に記すよう言ったからです。その後かなり時間がかかったものの、その署名があったことで、教会に記録されている生年月日とドイツ軍の資料からアウシュヴィッツに送られた日付を調査することができ、そこに記入することができたということです。

奥田 フリードル先生は絵を教えるだけでなく、人として大切にすべきことを子どもたちに伝えたのですね。

野村 そうですね。それで日本に帰ってからも、この絵のことが頭から離れなくなってしまいました。日本でこれらの絵の展覧会を開きたいと思うようになったのです。

奥田 日本で展覧会を開きたいといっても、それほど簡単ではありませんよね。

野村 ええ、でも、旅から戻って1年経っても気持ちが変わらなかったので、思い切って在日チェコスロバキア大使館を訪ね、日本で展覧会を開きたいと申し出ました。すると、大使館の方がすぐにチェコの国の方に伝えてくださって、プラハのユダヤ博物館が快諾してくださったのです。150枚の絵のレプリカを作る許可をいただきました。私たちがあの
国を訪れたのは89年の2月だったのですが、11月には「ビロード革命」が起こり、共産党政権による一党独裁体制が崩壊して民主化が進んだこともあり、私にとってはラッキーなタイミングだったのです。

奥田 この時期は、まさに歴史の転換点でした。

野村 そのほかにも幸運が重なって、第1回の展覧会を91年4月25日に埼玉・熊谷のデパートで開くことができたのです。そしてこの展覧会は、この年の年末まで、全国23カ所を巡回して開催されました。

奥田 それはすばらしい。ちなみに、この展覧会を実現させたのはおいくつのときですか。

野村 54歳です。

奥田 その年齢から新たなことに挑戦し、現在に至るまでライフワークとして続けられていることにも頭が下がります。後編では、そのバイタリティあふれる野村さんのバックグラウンドについてうかがいます。(つづく)
 

プラハで入手したフランス語のパンフレット

 本文に記したとおり、野村さんがテレジンとの強い関わりをもつきっかけとなったものだ。中のテキスト部分には、辞書を引きながら夜を徹して読んだ際の細かな書き込みがいまも残る。

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第323回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

野村路子

(のむら みちこ)
 1937年、東京生まれ。都立白鴎高校を経て、59年、早稲田大学第一文学部仏文科卒業。コピーライター、タウン誌編集長などを務めた後、新聞・雑誌にエッセイやルポルタージュを執筆。89年、プラハでテレジンの子どもたちの絵と出会い、その事実を伝えようとチェコ大使館やユダヤ博物館などと交渉し、91年から日本で「テレジン収容所の幼い画家たち展」を開催。生き残りの人たちへのインタビューを重ね、展覧会、執筆、講演活動を続けている。『テレジンの小さな画家たち』で産経児童出版文化賞大賞を受賞。ほかに『15000人のアンネ・フランク』、『写真記録アウシュヴィッツ』(全6巻)、『生還者たちの声を聴いて』など著書多数。学校図書発行の小学校6年の国語教科書に『フリードルとテレジンの小さな画家たち』が掲載されている。また、子どもたちの詩をもとにつくっ
た『朗読と歌によるコンサート《テレジン もう蝶々はいない》』を全国各地で上演し、2001年にはプラハ、テレジンでも上演した。