貴志川線のルーツは参宮線 自分の代で廃線にさせるわけにはいかない――第312回(上)
奥 重視
伊太祁曽神社 宮司
構成・文/浅井美江
撮影/笠間 直
2022.6.15/和歌山市伊太祁曽神社にて
週刊BCN 2022年8月29日付 vol.1936掲載
【和歌山市発】猫の駅長で一躍有名になった和歌山電鉄貴志川線。「伊太祈曽」という駅のほど近くに、見上げるような樹木にぐるりと囲まれた「伊太祁曽神社」がある。現在の地にご鎮座されたのは713年(和銅6年)だが、それ以前に別の社地にお祀りされていたというから創建はさらに時代を遡る。堂々たる古社の50代目を務める奥重視宮司は、「貴志川線の未来を“つくる”会」の副代表でもある。神社と鉄道を結ぶのはどのような縁か。いざ、紀州へ。
(創刊編集長・奥田喜久男)
50代目に課せられた
参宮線存続の難題
奥田 先ほど貴志川線に乗ってきたんですが、駅の名前は「伊太祈曽」と書いて「いだきそ」。でも、神社の名前は「いたきそ」とお読みするんですね。奥 そうです。和歌山の地名は読みが濁ることが多い。みかんで有名な有田も、読みは「ありだ」です。
奥田 はい。先ほどお参りさせていただきましたが、実に趣のある神社ですね。創建はいつ頃ですか。
奥 歴史の文献で三社分遷の記述が初見されるのは大宝2(702)年の『続日本紀』ですが、それ以前に別の社地にお祀りされていたのでもっと遡るでしょうね。
奥田 ここにご鎮座されたのは?
奥 和銅6年。西暦でいうと713年になります。
奥田 ということは、この社地だけで1300年を超えていることになりますね。奥宮司は何代目ですか。
奥 奥家としては50代目です。
奥田 50代……。もはや想像するのも難しいです。
奥 いや、僕も遡れるのはせいぜい曽祖父までですね。
奥田 ご先祖のことで、何かエピソードとか聞いておられます?
奥 曽祖父が南方熊楠と衝突していたという逸話があります(笑)。
奥田 南方熊楠と衝突! 原因は何だったんでしょう。
奥 明治の末頃に発布された神社合祀令です。熊楠は合祀に反対、曽祖父は国の方針だから進めないといけない。
奥田 それで衝突を。
奥 結局、合祀は実施されて、氏子地区の近隣26の神社が伊太祁曽神社に合祀されています。
奥田 うーん、時代を感じますねえ。神社については後ほどおうかがいするとして、ちょっと貴志川線の話を…。奥宮司は貴志川線にも深く関わっておられるそうですが、きっかけは。
奥 僕が宮司としてここに戻ってきたのは2003(平成15)年なんですが、ちょうどその頃に貴志川線が廃止になるという話が浮上したんです。当時運営していた南海電鉄が、年間5億円稼ぐのに8億円かかる。つまり毎年3億円の赤字が出るので存続させるのは無理だという。
奥田 それは厳しい数字ですね。
奥 ほどなくして、沿線にある団地の人たちから存続の声が上がり始めたんです。
奥田 団地以外の沿線の人たちはどうだったんですか。
奥 まあ、南海電鉄が廃線というなら、それもしょうがないかと……。
奥田 宮司としては?
奥 僕は「絶対に廃線させない」と思っていました。というのは、貴志川線はもともと日前宮、竈山神社、伊太祁曽神社の三社にお参りするための参宮鉄道なんです。
奥田 それは深いつながりですね。
奥 だから、僕の代でなくしてしまったら大変なことだと。何としても残さないといけないと思いました。
奥田 50代目の宮司としての強い思いがあったんですね。具体的にはどのような取り組みを?
奥 団地の人たちと協力して署名活動をしたり、他の地方で存続に成功したところに話を聞きに行ったり。
奥田 積極的に動かれた。
奥 廃線に関心のない、あるいはあきらめている沿線の自治会に対して存続すべく説明に行ったりもしました。
奥田 行政には?
奥 もちろん行きました。県にも市にも。南海電鉄にも署名で集めた嘆願書を持って談判に行ったりね。
奥田 効果はありましたか。
奥 いや、もう“けんもほろろ”。まったく相手にされませんでした。企業や行政の論理でね。
路線存続に大きな役割を
果たしたメディアの力
奥 そんな時、NHKのディレクターが来られたんです。奥田 伊太祁曽神社に? 和歌山支局ですか。
奥 いやいや。東京から。実はその頃(平成15年)、赤字路線が廃線になるのに、許可制から申告制へと改正になったことで、貴志川線だけでなく日本のあちこちで廃線が相次いでいたという状況があって。
奥田 ニュースに取り上げられていた記憶があります。来訪された狙いは?
奥 そうした社会的な問題をご近所の知恵で解決する『ご近所の底力』という番組を担当されているディレクターで、貴志川線の存続活動を取り上げたいと。それで、先に話した団地の人たちを中心に協力することになったんです。
奥田 宮司もテレビに出演されたんですか。
奥 出ましたよ。渋谷のNHKスタジオに20人くらいで行って。結局4回くらい出演しました。
奥田 話題になりました?
奥 すごかったです。「テレビを観た」といろんな人から電話がかかってきたりして。私たちも番組出演をきっかけに「貴志川線の未来を“つくる”会」を発足させて、その時から副代表として名を連ねることになりました。
奥田 “未来をつくる”。名前がいいですね。
奥 一時的な活動ではなくて、貴志川線を鉄道として永続させるために活動しようと。それで会員募集を始めたんです。年会費1000円で沿線地域の人を中心に。
奥田 集まりましたか。
奥 募集を始めて1年くらい経った頃ですかね、5000人を超えたんです。そうしたら行政がこちらを向き出した。
奥田 5000人の重みですね。
奥 それまでは何度談判しても「一部地域の問題だから」とか言われていたんですけどね。で、行政が動き出したら県や知事もこちらを向くようになってきた。
奥田 存続のための具体的な座組みが決まったのはいつですか。
奥 04(平成16)年から06(平成18)年にかけてです。和歌山市と貴志川町(現:紀の川市貴志川町)が鉄道用地を取得し、県がそれを全額補助する形で。
奥田 事業運営はどうされたんですか。
奥 公募の結果、岡山県に本拠を置く両備グループの「岡山電気軌道」に決まりました。05(平成17)年に運営会社として「和歌山電鐵」が設立され、運行が始まったのは翌年からです。
奥田 年間3億円の赤字問題もありましたね。
奥 実はいろいろ調べたら、3億円までいかないことがわかってきた。いろんな経費が上乗せされていたんです。
奥田 要するに廃線にしたかったと……。
奥 そうです。ただ赤字であることは間違いないので、その分は年数を区切って和歌山市と貴志川町が補填することになりました。
奥田 無事存続が決まったわけですね。やがて猫の駅長で一躍名を馳せ、いろいろなメディアで取り上げられるようになって。
奥 たくさん取材に来られました。SNSでも取り上げられて、インバウンドで中国の観光客がすごく増えました。猫の駅長人気もさることながら、“貴志”という地名が人気でね。中国の人たちにすごく響くらしい。
奥田 ほお。初めて聞きました。それにしても宮司の代で廃線とならずによかったです。
奥 本当です。地域の皆さんや応援してくれた方々のおかげですね。あとは、NHKを始めメディアの力は大きかったと思います。
奥田 ひと安心ですね。
奥 いや、まだまだです。ようやく赤字が解消できるかなというところにコロナ禍です。予断は許しません。(つづく)
木目が美しく割れにくい
杉の名刺
名刺の台紙は、和歌山県中央東部に位置する龍神村の森林組合でつくられたもの。木の台紙は木目に沿って割れやすいが、こちらはスライスした杉材の間に紙を挟む加工が施されているため、割れにくくなっているという。心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
奥 重視
(おく しげみ)
1946(昭和21)年1月和歌山市生まれ。和歌山県立桐蔭高校卒業後、皇學館大学に入学。卒業後、住吉大社、神社本庁、大宮八幡宮、伊勢神宮崇敬会に奉職。神社本庁では秘書課に所属し、当時の統理・徳川宗敬氏、総長・篠田康雄氏(熱田神宮宮司)などに仕えた。2003(平成15)年、帰郷して実家である伊太祁曽神社に宮司として奉職。「木の神様」を祀る神社として環境保全活動も実施。翌年、廃止の危機にあった貴志川線の存続を目指して結成された「貴志川線の未来を“つくる”会」の副代表も務める。