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現地の人たちの目線で考え 人を育て、組織をつくる――第311回(上)

千人回峰(対談連載)

2022/08/05 08:00

三枝富博

三枝富博

イトーヨーカ堂 取締役会長

構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2022.6.29/東京都千代田区のイトーヨーカ堂本社にて

週刊BCN 2022年8月8日付 vol.1934掲載

【東京・二番町発】今回の対談では、三枝さんの愛読書をお持ちいただき、何冊か見せていただいた。どのページも書き込みだらけで真っ黒だ。「頭がよくないから、書かないと覚えないんですよ」と謙遜するが、これがビジネス上の難問を解くプロセスの一つなのだろう。中国から日本に戻ったとき、ジャンルを問わず興味をひかれた本を20~30冊買い込み、読み込むのはもっぱら飛行機の中だそうだ。経営者たるもの、常に勉強を怠ってはならないと改めて思う。
(創刊編集長・奥田喜久男)

目先の安定よりも
新たな可能性への挑戦を選ぶ

奥田 作家で経済評論家の邱永漢さんと一緒に成都のイトーヨーカ堂を訪問したとき、三枝さんが代表してスピーチをされたことをよく覚えています。

三枝 そうでしたか。邱さんがお元気な頃ということは、もう10年以上前ということになりますね。

奥田 そうですね。それ以来、三枝さんの動静が気になっていましたが、まさに激動のビジネス人生を歩まれたのですね。

三枝 中国で20年間仕事をして、日本に帰ってきたらいきなり社長という話でしたから、本当に青天の霹靂という感じでした。

奥田 三枝さんは、イトーヨーカ堂初の海外展開に大きな貢献をされたわけですが、いつ中国に赴任されたのですか。

三枝 中国に出店することを決めたのが1996年で、このときプロジェクトメンバーとなり、実際に成都に赴任したのは97年です。

奥田 ということは、40代後半ではじめて海外に出られたということですね。それまではどんなポジションだったのですか。

三枝 文具・玩具のチーフバイヤーです。役職としては、部長の一歩手前というところですね。

奥田 ビジネスマンとして、まさに脂の乗りきったところで、経営幹部への道筋が見えてきたあたりですね。

三枝 実は当時の上司から、中国のようなわけのわからないところへ行かないほうがいいと、止められていたんです。

奥田 そうなんですか。そこにはどんな意図があったのでしょうか。

三枝 このままおとなしく国内にいれば、間もなく部長に昇進して、役員になる目もあるかもしれないのに、わざわざ中国に行って苦労することはないだろうということですね。当時、中国は暗黒大陸ともいわれていましたから。

奥田 暗黒大陸ですか……。

三枝 でも私は、この中国ビジネスに大きな魅力を感じました。時の副首相李嵐清氏から「高級店ではなく大衆が豊かになれる店をつくってほしい」といわれたと聞いて意気に感じましたし、新たな可能性に挑戦したいと思ったのです。

奥田 その上司のアドバイスを振り切って、目先の安定よりも新たな挑戦を選ばれたわけですね。その選択に至る原動力は何だったのでしょうか。

三枝 当時のイトーヨーカ堂は、業績のピークを越えたとはいえ、まだ1000億円近くの利益を出す企業でした。私自身、会社に対して誇りを持っていましたし、ここで学んだことを今後も生かすべきだと考えていました。ただ、いわゆる「業務改革」によるマイクロマネジメントに疲れ、いま、自分がやりたいことをやらないと後悔するという気持ちが強まっていたのです。そんなとき、中国ビジネスのトップリーダーとなる人物との出会いが、私の心を揺さぶりました。

営業本部長が打ち出したのは
「求む! 大バカ」

奥田 三枝さんの心を揺さぶったのは、どんな方ですか。

三枝 イトーヨーカ堂の営業本部長を務めていた塙昭彦さんです。塙さんは、セブン‐イレブンを成功させカリスマといわれた当時の鈴木敏文社長にも直言するような気骨ある人物でしたが、96年に専務取締役中国室長となり、たった一人で中国ビジネスを立ち上げることになったのです。ご本人は、これは世間では左遷人事と思われるとおっしゃっていましたが……。

奥田 イトーヨーカ堂の営業本部長といったら、相当な地位ですよね。そんな方が一人で中国に?

三枝 営業本部長時代は、2万5000人ほどの部下を率いていたということです。

奥田 それはすごい落差ですね。

三枝 もちろん一人では動きがとれませんから中国に行くメンバーを募るのですが、塙さんは人事部が選んだ優秀な人材ではなく、自分と一緒に中国に行きたいと思う人を自ら募ったのです。その人材の条件は、①利口はいらない②バカもいらない③大バカがほしい―というものでした。

奥田 その三つの条件は、どんなことを意味しているのでしょうか。

三枝 「利口はいらない」というのは、頭はよいが行動が伴わないタイプはいらないということですね。「バカもいらない」は文字どおり。「大バカ」というのは、愚直でも精いっぱい努力し、ゼロから物事を考え、それを組み立てていける人を指します。

奥田 何が起きるかわからない不確定要素だらけのマーケットに漕ぎだすわけだから、ゼロベース思考ができ、なおかつ実行力のある人が欲しいということですね。もちろん、三枝さんもこれに応募されたのですね。

三枝 はい。志望動機をいろいろと書き連ねて応募しました。

奥田 何人くらい志望したのでしょうか。

三枝 57人が応募し、そのうち7人がメンバーに選ばれました。

奥田 「大バカ」と認められるための競争率はずいぶんと高いのですね(笑)。ところで、中国に行かれていろいろとご苦労があったと思いますが、スタートはどんな状況でしたか。

三枝 97年11月に成都の1号店がオープンしましたが、お客様が来たのははじめの1週間だけで、その後は閑古鳥が鳴いているような状況でした。

奥田 その原因は?

三枝 当時の中国社会は「遅れている」という認識の下、現地の状況を無視して、売り場には8割以上「進んだ国」である日本の商品を日本の店舗と同じように並べてしまったのです。これは明らかにわれわれのおごりであり、中国やその他アジア諸国から学ぶものはないという傲慢な態度に起因するものでした。

奥田 結果的に、中国市場では日本のやり方のままではダメだったと。

三枝 そうですね。トップクラスだと思っていた日本の総合小売業のノウハウがまったく通用しなかったわけです。初年度の売上予算は100億円でしたが、実際は20億円程度にとどまりました。また現地従業員も、指示されたらやるが、見ていないと何もしないという、面従腹背の状況でした。でもそれは、われわれが「黙ってついてくればいい」という上から目線で対応していたからだったのです。

奥田 その問題が解決に至るまで、どのくらいの時間がかかりましたか。

三枝 2年以上かかりました。このままではダメだと思い、手探りでマーケットを見聞し、そしていろいろな本を読み、そこに解を求めました。

 思い込みを捨て、中国人の目線で考え、日本のやり方を下敷きにすることはやめようと決めました。そして、人を育て、組織をつくることに注力するようになったのです。(つづく)

大切にしている塙さんの色紙

 対談の中でもふれているが、イトーヨーカ堂の中国事業のリーダーとして活躍し、三枝さんが仕事の師として仰ぐ塙昭彦さんからいただいたもの。『人生、すべて当たりくじ!』という著書もある塙さんは、実際に中国行きの辞令が出たときは「はずれくじ」と考えたものの、何が何でも「当たりくじ」にしてみせると決意したそうだ。逆境にあっても、常に前向きな姿勢を貫いたのである。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第311回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

三枝富博

(さえぐさ とみひろ)
 1949年12月、山梨生まれ、神奈川育ち。68年、神奈川県立相模原高等学校卒業。73年、明治大学法学部卒業。大和証券入社。76年、イトーヨーカ堂入社。97年、成都イトーヨーカ堂出向。2006年、同社総経理。09年、同社董事長。11年、イトーヨーカ堂執行役員中国室長。12年、北京華糖ヨーカ堂董事長。13年、イトーヨーカ堂常務執行役員中国室長。16年、同社常務執行役員中国事業部長。17年3月、同社代表取締役社長に就任。22年3月、同社取締役会長。22年5月、日本チェーンストア協会会長、日本小売業協会副会長に就任。