人間の深い部分を理解するためには 本を読み続けることが不可欠だ――第304回(下)
渡久地 択
AI inside 代表取締役社長CEO兼CPO
構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
2022.3.7/東京都渋谷区のAI insideにて
週刊BCN 2022年4月25日付 vol.1920掲載
【東京・渋谷発】AIの分野で活躍する若き起業家は、人並外れた読書家でもあった。私とは干支で言えば3回りほどの年齢差にもかかわらず、歴史や宗教の話で大いに盛り上がった。渡久地さんの読書習慣については本文を参照していただきたいが、ふと、その膨大な読書量はAIの深層学習に通じるものがあるのではないかと思った。当たり前と言えば当たり前だが、学習量に応じて判断能力の正確性が増すAIと、読書により視野を広げ能力を高めてきた渡久地さんの姿がオーバーラップしたのだ。
(創刊編集長・奥田喜久男)
仏教書を何千冊も読んだことで
『般若心経』の凄さを改めて知る
奥田 渡久地さんは高校時代、音楽にのめり込んでプロのミュージシャンになろうとしたというお話でしたが、そのほかに何かのめり込んだことはありますか。渡久地 読書ですね。本を読むことは小さい頃からの習慣で、今もそれは続いています。
奥田 主にどんなジャンルの本を読まれますか。
渡久地 ジャンルはいろいろですが、歴史や哲学、あらゆる宗教の本をよく読みますね。
奥田 愛読されている本を、3点挙げるとしたらどんなラインナップになるでしょうか。
渡久地 塩野七生さんの『ローマ人の物語』、H・D・ソローの『森の生活』、それに『般若心経』ですね。
奥田 いずれも、物事や人間の本質を探究するタイプの作品ですね。
渡久地 そうですね。表層的な知識を得るのではなく、もっと深いところを学びたいという気持ちがあります。ですから、必要に迫られない限り、ビジネス書やハウツー書を読むことはほとんどないですね。
奥田 それは私も同じですね。そうした読書の蓄積は、仕事の面でも生かされるものですか。
渡久地 そうですね。例えば『ローマ人の物語』で、周囲の国のほうが優れていたにもかかわらずローマが一番になれた理由を挙げ、それをヒントにプロダクトの開発につなげることができないかといった話は、ミーティングのときなどによくしますね。
奥田 まさに、歴史から学べと。ところで『般若心経』とは、いつ頃、どこで出会ったのですか。
渡久地 初めて読んだのは、20代の前半ですね。最初はいわゆるお経として読み、あまりピンとこなかったのですが、読み込んでいくうちにいかに深いものが凝縮されているかがわかるようになりました。
奥田 なぜ、それがわかるようになったのですか。
渡久地 AIをやるのであれば、これまで人間がどのようなことを考えてきたのかを何千年もの歴史の中から学ぶべきと思い、古書店をめぐって仏教の本を渉猟したんです。そこで何千冊かの仏教書を読んだうえで、『般若心経』の凄さを再認識させられました。
奥田 読書好きとはいえ、仏教書を「何千冊」というのは桁外れですね。今、年に何冊くらい読まれるのですか。
渡久地 ここ4、5年で最も多かった年は、700冊くらいですね。今はちょっと忙しいのでそこまでは読めませんが……。
奥田 1日に2冊のペース!
渡久地 現代においては既に宗教と科学は、融合し始めていると思うんです。そこで読書や科学の実践であるAIビジネスによって真理を求め、悟りを開けるなら、それもまた本を読むモチベーションになります。いずれにせよ、読書は一生楽しめるものだと思いますね。
ウソつき呼ばわりされても
ぶれないで世界一を目指す
奥田 私から見ると渡久地さんは、起業家マインドや専門分野の知識、経営者としての才覚、そしてイケメンだし(笑)、いろいろなものが揃いすぎているタイプに映ります。渡久地 揃いすぎているということはないと思いますが、相反することを同時にやろうとするタイプと評されることはあります。
奥田 と言いますと?
渡久地 デザイン部門のスタッフからのヒアリングで指摘されたのですが、平和的でフラットな組織を好む反面、競合との戦いに際しては相手に完勝するまで徹底的にやり続けるタイプであると。つまり、私が優しい人間か優しくない人間かわからないというわけです。
奥田 それは、私の経営者としての経験から言えば、優しさが深ければ人を憎む心も深い、ということだと思いますよ。
渡久地 なるほど、わかる気がします。でも、AIという最先端のテクノロジーに携わりながら古都鎌倉に住んだり、生徒会長のようなアクティブな活動をする一方で部屋に籠って読書をするような側面があることは確かなようです。
奥田 渡久地さんは現在37歳とのことですが、これまで経営者として、これはつらいと思った出来事はありますか。
渡久地 AI inside創業前に、何度か会社を売却しているのですが、一度会社を乗っ取られてしまったことがありました。このときはつらかったですね。でも、私はある種、鈍感かつ楽天的なので、もうあまりそのときのことを覚えていないんです。
奥田 鈍感ですか。でも、それが前向きなエネルギーに転化しているのかもしれませんね。ところで、渡久地さんは「大ウソつき」とか「夢しか見ていない男」とか言われたことはないですか。
渡久地 何回もあります。当社の主力製品であるAI-OCRの開発前、100年以上の歴史があるOCRでできなかった精度の高い読み取り技術など実現するはずがないと、社内から大批判を食らいました。社員たちから詐欺師と呼ばれたこともありますね。
奥田 おやまあ! ということは、そんなに昔のことではないですね。
渡久地 当社は2015年の設立ですから、まだ最近のことですね。「もうやめたい」と、泣きながら家に帰ったおぼえがあります。
でも、泣いてやめるわけにもいかないので、自分でプログラミングしたり、営業して顧客獲得をしたり、パートナーを探したりと、「見ればわかる」ようにしてメンバーを納得させたのです。そして、私を批判した当時のメンバーは今も在籍しており、私のことを理解してくれています。憎しみが愛に変わったわけですね(笑)。
奥田 それは、経営者としてすばらしい体験をされましたね。2019年、当時の東証マザーズに上場されましたが、会社の未来像についてお話しいただけますか。
渡久地 私たちは、人類の進化のためにこの事業に携わっており、目指すところはグローバル・ナンバーワン・カンパニーです。その上で、まず売上高を1兆円にするためにはどうすればいいかと考え、その計画を進めています。
奥田 壮大な売上目標ですが、21年3月期の売上げは20年3月期の約3倍。これを続けていけば、1兆円も夢ではありませんね。
渡久地 またウソつき呼ばわりされるかもしれませんが、世界一を目指すというところはぶれないでやっていきたいと思います。
奥田 心から期待しています。
こぼれ話
蔵書家というか読書家というか。私が知っているIT業界の方のなかでは、村上憲郎さん、成毛眞さんがまず思い浮かぶ。お二人とも業界の有名人なので人物紹介は省く。もう一人は1980年代当時の松下電器産業の広報を担当しておられた杉田芳夫さんだ。杉田さんからは松下幸之助精神をよくお聞きした。話にひと区切りがつくと、そこで息を半拍吸って素顔の幸之助さんに話が及ぶ。ここからが本番だ。人は一日24時間を生きている。幸之助翁という人物の被写体の実話に私は人間の奥深さを学んだ。やはり、人とはなんぞや、である。年賀状には「年老いて一日一冊は難しい」とあった。そうか、杉田さんは30年前と同じように私に「読書をしていますか」と促しておられるのだ。ありがたいことだ。知識は何を生むのだろうか。今回登場の渡久地さんに3冊の愛読書を挙げてもらった。そのうちの『ローマ人の物語』を、私は要約本で読んだ。『般若心経』は13歳の時から耳にしている。ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』は知らなかった。その場から家人に購入を依頼したら、手元にあるとのこと。自宅に戻り、ペラペラと頁を繰りながら奥付を開く。古書独特のカビ臭さがした。真崎義博訳、 1989年3月10日新装第1刷。手元の本は92年5月20日第6刷。人気の本なのだ。原書はアメリカで1854年5月に発刊。明治維新の14年前だ。翻訳本は1911年に始まる。自然と共生するなかで、人の生き方と生きる価値を考えるといった著述だ。ソローの墓は友人であった同時代の哲学者エマーソンのそれに隣接するという。この人たちは1800年代のアメリカ産業革命の真っ只中で100年先を見据えている。なるほどと頷ける。では渡久地さんの愛読書3冊に共通する要素は何か。それは人の本質だ。般若心経について、私は少し見下したような質問をした。その返しが「何千冊かの仏教書を読んだうえで行き着いたのが般若心経です」という。これにはギャフンとやられた。甘いマスクと37歳という年齢に気を許しすぎたようだ。
慎重に話を聞きながら、大言壮語かと思われる話が節々にあることに気づいた。そのことを指摘すると、社内でも同じような反応があるという。社員に話して聞かせるのだが、理解は得られない。結果を出さないと納得してもらえないので、そのために努力するともいう。それはそうだろう、と思った。現在、公約している大きなゴールは「年商1兆円」だ。時期の設定はないから目標ではなく、“夢”と言ってもよい。昔も同じような話を聞いたことを思い出した。孫正義さんがまだIT業界にいた頃の話だ。同じように大きな話をした。当時、私は半ば不快感を覚えながら聞いていた。それが、一つ一つ実現して、その都度ステージを大きくしながら金融投資で世界のソフトバンクを築いた。まさに渋沢栄一の世界版だ。こうした手法は基本だが、私の場合は構想の大きさに体がついていかない。渡久地さんの話にも同じ感覚を抱いた。しかし実現している人が現役経営者で存在している。渡久地さんは、孫さんには「まだ、お会いしたことがない」とのこと。誠実は知恵に優り、知は生命の泉――どこかでこんな諺を見た覚えがある。ぜひ、孫さんに会って、彼の真剣で誠実なオーラを感じてほしい。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
渡久地 択
(とぐち たく)
1984年、愛知県北名古屋市生まれ。愛知県立西春高等学校卒業。高校を卒業後すぐにIT企業数社を設立。2004年より人工知能の研究開発を始める。以来、継続的な人工知能の研究開発を行い、多数の技術特許を取得。研究開発と同時にビジネス化・資金力強化を行い、15年、AI insideを創業。19年、東証マザーズ上場。同社の経営戦略とプロダクト開発を指揮している。