芸者衆はお客様や出会う人など 触れあう人の言葉から悟ることが多い――第302回(下)
【対談連載】浅草芸者 福了子
構成・文/高谷治美
撮影/長谷川博一
2022.1.31/浅草見番二階大広間にて
週刊BCN 2022年3月28日付 vol.1916掲載
【東京・浅草見発】浅草はその土地の人たちと団結して成り立ってきた歴史がある。芸者衆はコロナ禍でも感染対策やzoomを使ったオンラインお座敷、クラウドファンディングなど、形を変えながらも奮闘し、一方、お客様方など支えている人々からも心意気を感じさせてくれるのが、ここ浅草だ。浅草花柳界ではなくてはならない存在の福了子さんに、粋で艶のあるその佇まいからはわからない、人生の途中途中で悟られたことのいくつかをたずねた。
(本紙主幹・奥田喜久男)
浅草にいるんだから教えてやろう
正してやろうという人がいる
奥田 芸者さんはおもてなしのプロですよね。おもてなしの心が体に染みついたように動いておられる。お座敷で出てくる言葉も独特です。福了子 お客様にもっともっと楽しんでいただきたいものですから。お座敷で出てくる言葉で「おかよい」ってご存じかしら。お盆(トレー)のことなのですが、お盆だと藪入りということに通じて縁起が悪いので「おかよい」と言います。あと、クロモジの木からできている「爪楊枝」なんかは禁句です。「つまようじ」の「つま」の音でお客様に里心がついてしまいますから。こういうことをお姐さんからたくさん習ってきました。
奥田 そうそう、独特の言葉づかいですね。
福了子 昔はお手洗いのことも「おしも」と言い、扉の外でおしぼりを持ってお客様を待つのです。待っていないとお手洗いに行ったときに気持ちがお家に戻ってしまいますから、戻さないように、とか。
奥田 確かに。そういう所作ですわ。
福了子 生活すべてが花街に生きる人間として相応しい女性になるように、そのための修業を積んできています。
奥田 修行と言ったら、前編で「これまでの人生さまざまな方から学んできた」とおっしゃってましたが、どんなことがあったのか聞かせていただけますか?
福了子 そうですね、まだ半玉(見習い)の頃の話です。置屋の主のことはお父さんと言います。一度、その呼び名で料亭の旦那さんに怒られたことがあります。私の置屋のお父さんとある料亭の旦那さん同士が親友で、その料亭の方を「お父さん」と呼んでしまったのです。すると、「おまえ、ここへお座り」と長火鉢のあるお帳場に呼ばれましてね。なんだろう、と思って正座をしたら、「俺はな、おまえのお父さんと親友だからおまえのことが可愛いからひとつ言うからね。置屋はお父さんだよ、自分を育ててもらう人だから。でも、料亭は旦那さんだよ。父親ではないよ」って。「あっ」と思いました。
奥田 ありがたい話ですね。
福了子 そうです。昔はこうやって教えてくださる方がおられました。この子が、ということではなく、浅草にいるんだから教えてやろう、正してやろうという人が。
人間は最後までかかとを上げて
背伸びをしていられないもの
奥田 教えてやろう、正してやろうという人はほかにもいたのですか?福了子 お客様からも教わりました。私がまだ三十になるかならない頃、ある程度お座敷の様子がわかってきて、踊りもできるようになって少し鼻が高くなっていたのでしょうね。自分ではいつでも気にはしていたのですけれど、「先に先に。もっとうまくなりたい」という気持ちが出てしまったのです。
お客様に「芸事をやるには天狗になってはいけない。天狗になったら芸は止まるよ」と忠告していただきました。
奥田 努力し続けることが大切だということですね。
福了子 ただ、こうもおっしゃいました。「福了子ちゃんね、人間は最後までかかとを上げて背伸びをしてはいられないんだ。いつかはかかとを下ろさねばならないときが来るんだよ。そのとき、かかとを上げすぎていたら、下りるときも時間がかかるんだよ」と。
奥田 すごい言葉ですね。
福了子 実力が伴っていないのに、頭だけ先へ先へと行っていたんでしょうね。その時に言われてあーっと思いまして反省しました。それから常に「今、かかとついているかしら」と思うようになって。でも、ちょっとかかとを上げたい時もありますでしょう。そういうときには少し上げて、すぐに戻れるくらいにしておこう、ってそんな塩梅に。
このお客様は私の人生の大恩人です。それは芸者としてではなく人間として、よくぞ、おっしゃっていただけたと感謝しかありません。
奥田 その「背伸び」ですが、人間は背伸びをしないと成長しませんが、どれくらいの背伸びは良しで、これぐらいだとし過ぎだとか、どうやってスタンスを調整するのですか?
福了子 理屈ではないというか……。
奥田 感覚ですね。
福了子 そうなんです。こうも言われました。「だからといって、背伸びしないで私なんかじゃ無理です…、ダメです…なんて言ってたら、いい芸はできない。多少のうぬぼれがないといけないよ」とも。ですから、奥田さんがおっしゃる通り、そこは自分だけの感覚です。
奥田 多少のうぬぼれはおいくつくらいの頃に自覚されました?
福了子 名取をとって、師範をとってからでしょうね。人様に教えるようになっていましたから、私もできるのではないかと自信がついてきたのでしょう。
芸者としてではなく人間として
修行生活が終わっても人生は続くから
奥田 人間が生きているときは体重計を使えば一目瞭然で体重がわかる。しかし、「自分の成長」を測るメジャーがないんです。そういうのはどうやって気づくのでしょうか?福了子 お姐さん方が身をもって見せてくださってましたからね。お行儀や人との距離感やら暮らしの中のつき合い方など、「こうやってすーっと引いていくのか、または押していくのか」などの姿も。それらをこなせるようになると自分の成長に気づくのではないでしょうか。
奥田 気がつかないといけませんね。
福了子 そういった意味では、三人の見習うべきお姐さんがいました。
奥田 三人とは多いのでしょうか?
福了子 さぁ。私は踊りのことで勉強になったお姐さんや人間として勉強になったお姐さんお三方ですね。
奥田 三人と言い切りますね。
福了子 そうです。人生の曲がり角で悩んだときに教えてもらったお三方です。
奥田 一つめの曲がり角とは?
福了子 私は踊りが好きで芸者になったのです。とにかく一生懸命しっかりやろうと思っていました。それなのに、なかなか思うように踊れない時期がありまして。そんなとき、お姐さんに言われたのです。「井の中の蛙、大海を知らずになっちゃいけない。いちから勉強し直しなさい」と。十年稽古に出ました。その後、お姐さんから男役を勧めていただき、新境地を開くことができたのです。ありがたいことです。
奥田 芸事は力なりですね。では、二つめの曲がり角は?
福了子 そこはいろいろ……(笑)。それは人生のことですから。
奥田 では、曲がり角三つめは?
福了子 それも人生のことですから(笑)。
奥田 お話を聞いていますと、「芸者での背伸び」「人間としての背伸び」があるようですが、芸者として感じること、人間として感じることを別物のように理解されているのでしょうか。
福了子 お客様からありがたい言葉をいただいたと申しましたが、お客様は皆さま立派な方でした。「芸者として一流になって立派になることは大切なことだけど、人間としても立派にならなければいけない」というお考えがあったのです。
奥田 芸者としてではなく人間として教えてくれたと。人間修行をしているということですか。
福了子 そうです。
奥田 置屋の修行生活が終わっても人生は続く。そういうことですね。
福了子 修行させてもらったのは、そうやってお客様やお姐さん、そして浅草の街があったから。皆からポンと言葉をいただけることで悟るんです。振り返ってみても感謝していますね。花柳界ということで芸者になったことを。それらを次に残していかなければ、ここで生きてきた意味がありません。
奥田 選んだ道に悔いはないってことですね。
福了子 そうですね、踊りが好きで踊りがやりたいがために今も踊らせていただいていますから、幸せですよね。なれるものならもっと上手になりたいです。まだまだだと思っていますので。
奥田 踊りの魅力って何でしょうか?
福了子 想像と創造の両方が叶うことですね。踊りをしていると、 その物語の中に入っていき、主人公になって演じることができます。踊りは内面の感情が振りや動作に現れるもので、それはなににも勝る醍醐味であって、楽しいものです。
奥田 13歳の時とそこは変わらないのですね。芸はいくらやっても奥が深いものです。惚れぬいた仕事に時間とエネルギーを注ぎ、誇りをもって生きるなんて、これ以上の幸せがあるだろうか。ひしひしと伝わりました。本日はありがとうございました。
こぼれ話
福了子さんと書いて「さよこ」さんと読む。この名前はまず読めない。由来を聞いたのだが、それでも曖昧な理解でしかない。だけど、舞う姿は鮮明に覚えている。舞いながら見る目の先ばかりではないし、指が示す先ばかりでもない。身体中から“凛”とした力が発散されている。強くなく弱くなく。それでいて波動が伝わってくる。浅草三業地の、とある場所。こぢんまりした6畳ほどの空間に、三味線の音色に端唄が乗って人が舞う。美しいと思った。非日常の経験に頭の中がぼーっとした。お酒の酔いもあって、福了子さんの人生話をうかがいたいと思った。その宴の帰り道で「飯島さん、仲介していただけませんか」とお願いした。飯島さんとは浅草観光連盟の理事でこの連載企画『千人回峰』の第290回目に登場していただいた方だ。その日から少し間をおいて、福了子さんとは浅草見番でお会いすることになった。待ち合わせ時刻には少し余裕がある。周りを眺めたが喫茶店はなさそうだ。見番の斜め前に蕎麦屋がある。そうだ、きょうはまだ昼食を食べていない。お腹が空いていたので、かけ蕎麦で腹ごしらえをした。屋号は『弁天』。美味かった。店の外に出て見番に目をやると、着物姿の方が自動販売機に小銭を入れている。福了子さんだ。小走りで近づいた。編集クルーのためにお茶を買っておられたのだ。何となく身近に感じた。「どこでお話を聞きましょうか」。応接室に入るなり、机の上にいくつもの扇子を並べながら、それぞれの由来話が続いた。聞きながら、扇子への思いの強さ、深さが伝わってくる。この扇子は名取を受ける試験で使ったもの。「扇子はとても大切なものなんですよ」という言葉よりも所作でその大切さが伝わってくる。「あの店は新しい代の方が継ぎましてね」。私たちはこうした方々に支えられています、と話の節々に浅草花柳界を支える道具屋の名前がポンポンと飛び出す。いずれも老舗ばかりだ。浅草寺を取り巻く地域で江戸から続く花柳界の伝統文化を垣間見る。こうした道具は使う人がいて、作る人がいて成り立っている。扇子の生命は作る人、舞う人、それを見る人の循環で成り立っている。なるほど、福了子さんはそれをわかって、お道具屋の自慢をされているのだ。
花柳界には聞き慣れない言葉が多い。私も面食らったことがある。40年前のことだ。『週刊BCN』は池袋の隣駅にある大塚三業地で創刊した。義理の伯母が待合の元女将だったので、その名残のある料亭の片隅、狭い部屋で創業した。創業日は1981年8月18日。暑い日だった。当日のことは鮮明に覚えている。
事務所が立地する三業地という場所も新鮮だった。大塚三業地は大塚駅南口を出て左に曲がり、セブン‐イレブンとパチンコ屋の狭い道を入る。そういえば、セブン‐イレブンの入っているこの場所で、BCNと同じ頃にビックカメラの創業者新井隆二さんは薬屋を開業していたという。当時からご縁がありますね、と話が盛り上がった。さらに蛇行する道を奥に進むと、その一体が三業地だ。三業とは芸妓、待合、料理店からなる。なるほど確かにこの三業で街が組織されている。私はその後、元料亭に居を構えた。2階の大広間には緞帳付きの舞台があった。住みにくい間取りだが、私の子どもたちはその舞台に二段ベットを入れて、寝ていた。変なことを思い出すものだ。この街は今もその名残がある。浅草三業地は現役の花街として生きている。生きている街には“生きている人”の息吹がある。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
福了子
(さよこ)
栃木県足利市生まれ。13歳のときに初めて明治座の舞台を観て、釘付けになり、花柳界へ。置屋「君の家」に入り、15歳で初舞台を踏む。その後、浅草ではなくてはならない存在の芸者に上りつめる。お座敷の稽古指導、後進の育成にも力を入れている。故郷の足利市は、足利織姫神社、鑁阿寺(ばんなじ)、中世の高等教育機関の足利学校が有名で、足利学校では小学校時代に論語を学んだこともあって、今でもときどき諳んじる。