お姐さんや周りに教えられ 芸の美しさを引き立ててもらう――第302回(上)

千人回峰(対談連載)

2022/03/18 00:00

福了子

【対談連載】浅草芸者 福了子

構成・文/高谷治美
撮影/長谷川博一
2022.1.31/浅草見番二階大広間にて

週刊BCN 2022年3月21日付 vol.1915掲載

【東京・浅草発】江戸情緒が色濃く残る浅草。芸者衆の手配などを行う花街の中心施設「浅草見番」に、福了子さんは黒の着物で粋な香りを漂わせて現れた。男なら一度は憧れるお座敷遊びの世界。「一見さんお断り」の店がほとんどのなかで、浅草花柳界は今最も初心者の訪れやすい花街として知られている。このコロナ禍にあって、「接待を伴う飲食店」という位置づけにあり、苦しい局面に直面している。そんな状況にありながら、浅草芸者衆が失なわず持ち続けているよき伝統や、福了子さんが極める踊りの世界についてうかがった。
(本紙主幹・奥田喜久男)

2022.1.31/浅草見番二階大広間にて

13歳で明治座の舞台を観て
花柳界入りの人生が始まった

奥田 この浅草見番の二階は広いですね。

福了子 はい、国立劇場の稽古場とほぼ同じ大きさで自慢のお稽古場なんです。戦後間もなくできたのですが、一堂に会せるいい場所ですね。

奥田 浅草は地域に根付いた催しが毎月あるとのことですが、芸者衆は行事をどうこなすのでしょうか。

福了子 たとえば大晦日と元旦行事でいえば、12月28日に御用納めですが、大晦日は観音様の境内横の除夜の鐘楼で鐘が撞かれますので、芸者衆は参拝客に「おめでとうございます」と言ってお屠蘇を注ぐお役目があります。

奥田 仕事始めは?

福了子 この見番に芸者衆は黒い衣装を着て一堂に会します。コロナ以前まででしたら、この後にお座敷が次から次へと続いていましたが、今年はオミクロンのせいで……。

奥田 それは残念なことですね。いつもなら1月はお正月で華やかに。2月から3月4月と続く月はどのような行事がありますか?

福了子 2月はお節分、3月は観音様を祀る浅草寺本尊示現会、4月は春の観光祭り、5月は三社祭ですね。

奥田 6月でひと息つくのかしら?

福了子 いいえ、6月は植木市、7月は隅田川花火大会、8月は浴衣会のお稽古やサンバカーニバル、9月、10月は秋の観光祭や菊花展、11月になるとお酉様、12月は羽子板市。そして浅草芸者衆総出演の浅草おどりがございます。なんやかんやあって「浅草は行事がたくさんあって羨ましい」とよく言われます。ありがたいことですね。

奥田 やはり忙しいほうが活気があっていいですよね。ところで、福了子さんが芸者になられたきっかけはなんだったのでしょうか?

福了子 私は生まれが栃木県の足利でして、実家の隣に住んでおられたのが、後にお世話になる置屋さんのお嬢さんで、そのお父さんが浅草で置屋を営んでおられました。

 私は子どもながらに着物を着るのが好きでした。お隣のお嬢さんが「着物がとても似合う子がいるので会って」とお父さんに言ったらしく、13歳のときに明治座の踊り「浅茅会」を観に来ないかと誘われました。

 行ったが最後。舞台のお姐さんたちが華やかで美しくて目が釘付けになってしまいました。

 そのときに、置屋のお父さんに「浅草の芸者さんになればこの舞台に立てるんだよ」と言われたのです。

奥田 芸者さんがどういうものか知っていたのでしょうか。

福了子 いえ、なにも知らずに。ただ、芸者衆になればこの舞台で踊れるのだと。その思いだけで、「私、芸者衆になる」って、足利に帰って両親にお願いしたんです。

奥田 ご両親の反応は? 

福了子 大反対でした。父は普通の会社のサラリーマンでしたし…・・・。

奥田 しかし、すごいチャンスでしたね。こういう出会いはあまりないでしょう。その置屋さんに入ったわけですか?福了子 花柳界は芸どころですから、踊りの修行をしなければなりません。中学校に通いながら土曜日は浅草でお稽古をつけてもらうというわけです。両親からは「1年間続けられたら許す」という約束を取り付けて置屋にお世話になったのです。「君の家」という名前の置屋です。土曜日、中学校の授業を受けた後に東武鉄道の電車に乗って浅草へ行き、稽古をして「君の家」に一泊して、翌日夕方に帰るという生活です。

奥田 1年間だから約50回ですね。

福了子 私が中学校から帰宅すると、父が駅まで送り、翌日に迎えに来てくれました。嬉しかったですね。やれると言い切り、やりたいという強い思いが伝わりました。希望に燃えていました。

奥田 しかし、よく1年間、毎週通いましたね。

福了子 母が担任の先生に相談してくれたのもよかった。稽古に間に合わせるためには土曜日の学校の掃除を免除してくれなければなりません。すると、当時の担任は岡田忠治という先生でしたが、ホームルームのとき、皆の前に私を前に立たせて、「彼女はこれから踊りの修行のために、東京へ行かねばならない。土曜日の掃除は免除させてあげてほしい」と言ってくださいました。

奥田 同級生は納得してくれましたか?

福了子 ええ、誰一人文句を言わずに「頑張って、いってらっしゃい」と送り出してくれました。

奥田 だからこそ福了子さんも覚悟ができたのでしょうね。その後、岡田先生とは会われましたか?

福了子 はい。折に触れ、会えるときは会っていただき、「頑張ってるか?」「一生懸命やってます」などと。

奥田 浅草で1年間学んでみてどうでした?

福了子 実家では末っ子で甘やかされて育ちました。何もできなかったものですから、お扇子を開くところからです。お扇子で結界を作って上から取って後ろへ広げていく作法をお師匠さんに習うわけです。

奥田 結界というのはわかりましたか?「相手と自分との間に境界線をつくって自分がへりくだる」という意味が込められてる、あれですよね。

福了子 わかりませんでした。でも、「ここからが始まりなのかな」という覚悟みたいなものを感じました。1~2年かけてそういった花柳界のことを覚えながら、歌舞伎、文楽、宝塚も観に行って勉強し、さまざまなことを吸収していきました。

奥田 初舞台はいつでしたか?

福了子 昭和53年の「浅草おどり」です。浅草の芸者さんたちが日々、修錬を重ねた舞踊や邦楽の技芸を舞台で発表する会のことですが、そのときに総踊りに出ました。

奥田 初舞台はどんな感想を持たれましたか?自分の人生において初舞台は重要な位置付けではありませんか。

福了子 その頃は、「先へ先へ」という思いが強かったですから、特に感慨はありませんでしたし、重要な位置付けという感覚もなかったような気がします。とにかく、「早くお姐さん(先輩芸者)のようになりたい」だけでしたから。

奥田 なるほど、そういうものかもしれませんね。「もっとうまくなりたい」しかないのでしょう。ご両親は観られてなにかおっしゃっていましたか?

福了子 総踊りでその他大勢の役でしたが、「上手にできて、綺麗だったよ」と褒めてくれました。

浅草という街が教えてくれた
芸者衆の生き方や心得

奥田 売れっ子半玉(見習い)さんから始まって、その後も順調だったのですか?

福了子 18歳で一本になりました。

奥田 一本とは?

福了子 半玉だったのがお姐さんになることで、京都だと舞妓さんから芸妓さんになるのと同じです。襟も刺繍半襟から白に、普通の芸子さんの髪型に。裾も引けるようになります。半人前から一人前に。

奥田 浅草にも慣れた頃でしょうね。その時代と比べて浅草は変わりましたか?

福了子 人情があって、今でも街の雰囲気は変わっていません。お店も三代目、四代目になりましたが、ご贔屓の方々ばかり。

奥田 どんなお店がありますか?

福了子 お扇子は文扇堂さんで四代目、甘いものの龍昇亭 西むらさんは三代目などです。浅草の街は、先ほどお話ししたように行事がたくさんあるので常に横のつながりがあり、まとまっていないと成り立たない街なんです。

奥田 人とのつき合いも変わりませんか?

福了子 芸者衆に対する態度も変わりませんね。礼儀なども代々受け継がれていて。

奥田 誰が教えるんでしょう?

福了子 街が教えるんです。皆、自分の子どもだけでなく、どんな子どもも叱りますし、褒めるところは褒めますね。私だって15歳の頃から叱られて育ってきましたから。

奥田 よその土地で生まれた福了子さんも?

福了子 そうです。明けても暮れても姐さん方の手伝い、自分のお稽古。睡眠時間もあまり取れず、芸の上達に躍起でした。お客様と一緒に楽しみながら、もっともっと楽しんでいただいて居心地の良い空間を作っていきたいと思っていました。だけど、わからないことばかり。お姐さんや周りの方々に教えて頂きながら、お姐さんの姿に学びながら芸の美しさを引き立てもらうのがこの世界ですね。

奥田 わずか15歳にして親元を離れ、「負けられない」と気張ってこられた姿は、なんとなく想像がつきますね。

福了子 浅草の街から、お姐さんから、旦那衆からさまざまなことを学びました。そうやっていくつもの人生の曲がり角を越えてきたんです。

奥田 後編では、その曲がり角についてうかがってみたいものです。(つづく)

職人の技が光る浅草しきたりの扇子

 芸者にとって扇子は、舞などに使用するお座敷の必須アイテムです。銀箔の扇子は名取の試験を受ける時に使用した「初心忘るべからず」の戒めの宝物。また、干支の扇子は正月に使用するもので、干支のかんざしと一緒に使うのが浅草のしきたりです。網の扇子も三社祭に使用する流儀があります。扇子もかんざしも一つひとつ職人さんの技があってこそのものなのです。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第302回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

福了子

(さよこ)
 栃木県足利市生まれ。13歳のときに初めて明治座の舞台を観て、釘付けになり、花柳界へ。置屋「君の家」に入り、15歳で初舞台を踏む。その後、浅草ではなくてはならない存在の芸者に上りつめる。お座敷の稽古指導、後進の育成にも力を入れている。故郷の足利市は、足利織姫神社、鑁阿寺(ばんなじ)、中世の高等教育機関の足利学校が有名で、足利学校では小学校時代に論語を学んだこともあって、今でもときどき諳んじる。