民事再生を経験して切に願ったのは 「嫌いでもいいから、どうか信用してほしい」――第301回(上)
安東晃一
ビジョンメガネ 代表取締役社長
構成・文/浅井美江
撮影/長谷川博一
2022.1.13/大阪市西区ビジョンメガネ本社にて
週刊BCN 2022年3月7日付 vol.1913掲載
【大阪市発】「ビジョンメガネ」は、関西を中心に全国15府県106店舗を展開するメガネの専門店だ。創業は1976年。昭和の創業者パワーと時代の波に乗って事業を拡大していたが、やがて異業種からの参入などで潮目が変わり、2009年に上場を廃止。その後13年には民事再生を申請した。申請日の2週間前に社長に就任したのが当時39歳の安東さんだ。逆風吹きすさぶ厳しい状況を乗り越え、プロパー初の社長として、見事に会社を再生させた安東さんに話を伺った。
(本紙主幹・奥田喜久男)
あみだくじを引き当て、
社長に就任
奥田 ビジョンメガネの創業は1976年。当時としては現代的な社名に思えますが、創業時からですか。安東 そうです。現在では“ビジョン”という単語自体が一般化して、商標登録できないかもしれませんね。
奥田 創業者はどのような方だったのでしょう。
安東 昭和の創業者パワーをもつ人でした。アイデアも豊富で、機関車のように会社をけん引していましたね。
奥田 安東さんが入社されたのはいつですか。
安東 96年です。
奥田 パソコン業界で言うとWindows95が出たあたりですね。世の中がまだ元気な時代。
安東 その通りです。会社も上り調子で新店を増やしていました。取引先から頼まれる形でM&Aもしていましたね。
奥田 安東さんが入社された頃の店舗数は。
安東 130店舗くらいでしょうか。マックスで270店余りがあったと思います。
奥田 入社してからはどんな仕事に就かれましたか。
安東 1年目に小規模店舗の店長を任されました。その後3店舗ほど店長と並行して社員教育を手伝い、やがて本社異動となって教育担当の専任となりました。
奥田 そうやって社内で経験を積んでおられるうちに、業界の状況が変わってきた。
安東 2000年代に入って、異業種から低価格の眼鏡チェーンが台頭して消費者の意識が一変しました。
奥田 どのような変化があったのですか。
安東 それまでの眼鏡がもつ医療器具としてのイメージから、ファッション雑貨として見られるようになりました。購買層が広がる一方、眼鏡に対して知識や技術よりも価格やデザインが重視されるようになってしまいました。
奥田 ちなみに、価格的な差はどのくらいですか。
安東 業界平均でいうとレンズを含めてだいたい3万円ほどですから、新業態のお店と比べれば高めになりますね。
奥田 なるほど。低価格の眼鏡だと2個買えてしまいますね。そうして低迷が続き、2009年に上場廃止されました。安東さんが社長に就任されたのは?
安東 子会社としてのビジョンメガネの社長に就任したのは2011年です。当時は親会社に「ビジョン・ホールディングス」がありましたので。
奥田 社長に就任される前はどういうポジションだったんですか。
安東 取締役でした。5人いる取締役の最年少で、IRを担当していました。
奥田 すでに頭角は現しておられたということですね。社長に指名される予感はありましたか。
安東 いえいえ。「まさか」という気持ちもあって、最初はことわりました。
奥田 それが、あみだくじを引き当てて引き受けられたとか。本当ですか?
安東 本当です。ことわったら、当時の社長がいきなりホワイトボードに線を引き始めて、私にも線を引けと。言われるままに引いた後たどっていったら、一発で当たりの花丸に到達してしまったんです。
奥田 実は、全部花丸だったとか(笑)。
安東 いや、そうだったらことわれるんですけど(苦笑)。本当に引き当ててしまったことに、自分が一番ビックリしました。
奥田 IRを担当されていたなら会社の状況はおわかりでしたよね。花丸を引き当てたとはいえ、引き受けられたのはなぜですか。
安東 なんでしょうね。「私しかいなかったから」という答えになりますでしょうか。あと、当たりを引き当てたご縁も感じておりましたね。
奥田 当時おいくつだったんですか。
安東 39歳です。株主総会で承認されたのが6月24日。ちょうど私の誕生日前日でした。
従業員の力を痛感した
民事再生での経験
奥田 その後はどういう経緯になるのでしょうか。安東 親会社がいろいろ手を尽くされたのですが、事態は好転せず、しばらく社長の座が空白になっていたんです。誰かがやらなければと株主の代表から言われ、民事再生申請の2週間前に親会社の社長に就任しました。
奥田 なんと直前ですね。ご家族にはなんとお伝えしたのですか。
安東 「親会社の社長になったよ」とは言いましたが、民事再生のことは極秘事項ですから誰にも言えませんでした。
奥田 奥様は何もおっしゃらなかったのですか。
安東 妻は私と同期入社だったので、何かを察していたかもしれませんが、何も言いませんでしたね。
奥田 お一人で背負ったまま、民事再生の手続きに入られた。
安東 はい。連日、銀行や取引先への行脚が続きました。以前から業績説明等でお会いしていた銀行の方からは、「なんで火中の栗を拾ったんですか」と言われました(苦笑)。
奥田 うーん。やっぱり「どうして引き受けられたのですか」と、また聞きたくなりますね。
安東 親会社の社長を引き受けたのは、当時ビジョン側の人間として残っていたのが私だけでしたし……。きっと大変なことになるだろうから、他の人には耐えられないだろうなとか。
奥田 いろんな方に「なぜ受けたのか」と聞かれましたでしょ。
安東 仲間や友達からもよく聞かれました。それに対してはいつも「ビジョンメガネが好きだから」と答えていましたね。
奥田 それ、かっこよすぎません?(笑)。
安東 ですよねえ……。好きだけでそんなことできるかと言われるんですけど、やっぱり会社にお世話になりましたし、何とかするしかないと。
奥田 覚悟の上というわけですか。
安東 いえ、今から思えば大変なことが起きるとは思っていたものの、具体的なことはあまりわかっていなかったのかもしれません。
奥田 解決する手段のイメージはお持ちでしたか。
安東 ありませんでした。とにかく弁護士から言われたのは、「明日からの資金はあるか」「仕入れができるのか」「従業員がこれまで通り働けるのか」の三つ。これができないと民事再生は成功しないと。
奥田 一番難しかったのはどれですか。
安東 従業員の方々がこれまで通り働いてくれるのかでした。「絶対に嘘はつかないので、私のことを好きでなくてもいいから、お願いだから信用してほしい」と心底思いました。
奥田 どこから出てきた言葉ですか。
安東 民事再生を経験して痛感したことです。果たして明日、店に立ってくれるのだろうか。従業員が働いてくれないことには、次の資金につながらない。でも私に対する信用はがた落ちしている。信用を失うことがこんなに怖いことなのかと、身にしみました。
奥田 切羽詰まった言葉ですね。
安東 結局、会社を守ってくれるのは従業員なんだと痛感しました。再生できたのは、とにかく従業員の方々がビジョンメガネが好きで何とかしたいと思ってくれる力がすごかった。本当にすごい力を発揮してくれたことが再生につながったと思っています。(つづく)
ハーフマラソンを走った
ビジョンくん
ビジョンメガネのキャラクター「ビジョンくん」の被り物。「ゆるキャラグランプリ」への出場を目指して製作されたので本体部分も存在する。安東さんはかつて、三重県で開催されたハーフマラソンにこれを被って出場。ただし、暑すぎて途中からは小脇に抱えて走ったそう。ビジョンくんの後ろの額は、同社が掲げる「メガネのマエストロの5ケ条」心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
安東晃一
(あんどう こういち)
1972年6月大阪市生まれ。大阪国際大学経営情報学部(現経営経済学部)卒。96年ビジョンメガネ入社。店長職等を経て、2011年ビジョンメガネ代表取締役社長就任。13年、民事再生の適用を申請し、翌年8月、終結決定。その後業績を見事にV字回復させた。小学生から始めたサッカーは、高校・大学と継続。ポジションはディフェンス。現在は100キロマラソンなどウルトラマラソンにも参加。信条は「やらずに悔やむより、やってみて悔やむ」