言語にアルゴリズムがあるように 生き方にもアルゴリズムがある――第279回(下)

千人回峰(対談連載)

2021/04/02 00:00

田中優子

田中優子

法政大学名誉教授 前総長

構成・文/高谷治美
撮影/長谷川博一
2021.3.2/法政大学の総長室にて

週刊BCN 2021年4月5日付 vol.1869掲載

【東京・市ヶ谷発】田中優子さんはこの3月31日をもって、法政大学総長を任期満了された。その法政大学で、多くの出会いと発見、学びを得て、同時に社会の理想を描かれ、大学総長として改革に邁進し、“自分自身の人生”を生き抜いてこられた。これからは専門の江戸近世文化・アジア比較文化を基軸として、さまざまな創作活動に取り組んでいかれるとのこと。さて、田中さんが夢中になられた学びの原点でもある「言語学」。これは、言語のアルゴリズムでもあり、生き方のアルゴリズムではなかろうか。新しい刺激があった。
(本紙主幹/皇學館大学評議員 奥田喜久男)

2021.3.2/法政大学の総長室にて

“平塚らいてう”に影響を受け 東京へ出た祖母

奥田 この3月で法政大学の総長を無事に退任された田中さん、心より祝福させていただきます。退任後はどのようなことを計画しておられますか?

田中 本を書くことに戻ります。ただ、これまでの殻を破って、ジャンルを広げたいと思っているのです。これまでの江戸関連でも、まだ書いていないものがたくさんありますが、これからの書き方は、研究者として研究素材を集めて裏付けを取っていくばかりではなく、もっと想像力を膨らませていこうかと。

奥田 もう、立場や役回りも関係なく自由にお書きになれますね。前回、お父さまも文章がお上手だったとお聞きし、遺伝子なのだと思いましたが、お母さまは?

田中 母も読書は好きでしたが、書く人というより物語を持っている人です。母の母親、つまり祖母のことなど。

奥田 どんなお話なのでしょうか。

田中 祖母は明治生まれで、栃木県の造り酒屋の娘でした。ある時、平塚らいてうが作っていた文芸誌「青鞜」の影響を受けて東京に出てしまったのです。

奥田 おばあさまはインテリだったのですね。女性解放運動家の平塚らいてうに心酔しておられた。

田中 平塚らいてうに魅かれるのは二通りです。一つはあの時代でも大学に行くような知識階級の子女で、もう一方は庶民の娘たち。祖母は後者です。

 当時、造り酒屋を中心にして青年たちが集まるサロンのような状態になっていたようで、いろいろな情報が入ってきたからでしょうね。

奥田 おばあさまは、上京して何をなさったのですか?

田中 横浜で、茶屋のおかみとして自立していました。結婚せずに、子ども3人を産み育てました。

奥田 そちらも小説になりますね。シングルマザーとして時代の最先端を走っておられた。

田中 いつか書きたいと思っています。祖母には3人の子どもがいましたが、一人は戦死しました。末娘が私の母なんです。その頃は戸籍に私生児という表記が残っている時代。それは非常につらかったと言っています。

 現在、母は95歳で私と一緒に住んでいて、私は在宅介護をしています。老老介護です。もう、当時のことはあまり覚えていないようですが、写真は残っているのです。

奥田 小説ができたら読んでみたいですね。ところで、前回、田中さんが大学時代に、作家石川淳の『江戸人の発想法について』を読んで、江戸時代に人間が多層人格を作る社会像があったことに気づいたというおもしろい話がありました。

 この知的体感によって江戸文化研究という道を選ばれたわけですが、言語学についても新しい出会いがあったようですね。

基本に帰り、言葉に帰れば
怖いものなし

田中 私が大学1年生の時、1970年のことです。言語学者野林正路先生の講義で、構造主義言語学を学びました。世界的な言語学者ノーム・チョムスキーの「生成文法」もその頃学びました。

 それは私の新しい好奇心の対象となりました。理解するには、まずソシュールの言語哲学を読まないといけないし、ヤコブソンの音韻学の領域にも入らねばならなかったのです。

奥田 1970年であれば、大学では学生運動もあったのでは?

田中 当時、私も学生運動をやってはいましたが、それは考え、議論する場だったからです。政治セクトに関心はありませんでした。言語学に出会って、人間よりも言葉に向き合うようになっていました。

奥田 言語学って幅広いんですけど、もう少し狭めていただけましたら……。

田中 はい。言語学は言語調査などもするのですが、私が関心をもった理論的な支柱は「構造主義言語学」といい、1950年代からフランスで起こったものです。構造主義言語学というのは、音韻の要素がどのように組み合わさって意味を形成するかの理論的探求です。その方法は文化人類学、社会学、思想や文学作品の分析などにも使われました。

奥田 言語と思想が一致していた?

田中 イデオロギーが先にあってそこから文学論とか文化人類学、社会論などを導き出すのではなく、人間の頭脳のなかにある基本的な要素にもう一度立脚しようとするものでした。根っこに帰る方法論です。

奥田 というと、人間がもっと本質的に持っているものなのですか。

田中 そうです。私はその後、ロラン・バルトの文学論の方法を、卒論を書くときや修士論文を書くときにずいぶん使いました。つまり、文学作品を言葉の一つひとつの成り立ちや、その背後にある歴史的、重層的な意味から分析します。ストーリーを鵜呑みにして作品の意味を短絡的に考えたり、分類したりはしません。つまり、一つの作品は、一人の個人が創り上げただけではないということです。

 一つひとつの言葉とその組み合わせには、その背後に歴史があるわけです。イメージの歴史や文化の歴史が。そういうものまで取り込んで読む、という方法なのです。

奥田 田中さんの日本文学や江戸文化研究の基盤は、こういうところにもあるのですね。

田中 構造主義言語学というのは、言語そのものの研究というよりも、方法論なんですね。

 つまり、人が社会をどう構成しているかというのと同様、言語の意味をどう構成しているのか、その方法を発見しよう、ということです。

 ですから、文学についても文学をどうやって分析するのかということを、方法として持ちましょうよ、ということです。

奥田 ノーム・チョムスキーは?

田中 ノーム・チョムスキーの言語学は生成文法です。「人間には遺伝的なものとして、言語を操る能力が備わっている」と。たとえば、子どもは無数の会話を聞いているわけではないけれど、話せるようになる。それは、文法を組み合わせる能力が備わっているので、いったん習得すると、そこに新しい単語を入れながら話せるようになるということです。

 人間というのは、機械みたいにデータを入れないと何もできないのではなく、データがなくても、基本的な方法というものが備わっているというのです。

奥田 では、文法が先にありき? ということは、アルゴリズムが入っているということですか!?

田中 そういうことになりますね。ただ、それは、言語によって主語と述語のどちらが先かなど、そういう順番の話ではなくて、編集能力のことです。私がものを書いたり読んだりするときに、古典であろうが何であろうが怖くなくなったのは、わからなくなったら「基本に帰ればいいのだ」ということがわかったからです。また、思想的に混乱が起こったら、言葉に帰ることが大事だということです。

奥田 これからは、本を書くことが中心になってこられるでしょうから、文体などに言語学が必要になってくるのでしょう。

 「自分の言葉を作ることによって、自分というものができる」と、どこかに書かれていましたね。

田中 私には、文芸評論的文体が染みついています。エビデンス重視の研究者的な姿勢もあります。でも、それでは追いつけないことが多くあります。たとえば、知らない人の人物描写はエビデンスでは行えません。そういった意味で、今までとは異なる文体を開発しようとも考えています。

奥田 作家としてのご活躍が楽しみです。まずは、平塚らいてうを追いかけたおばあさまの小説からお願いいたします。

こぼれ話

 日経新聞の夕刊コラム「あすへの話題」は欠かさず読んでいる。原稿には知識や思想が詰まっている。2021年2月9日号は田中優子さんが執筆しておられた。「帰属意識」と「拠点意識」がテーマだった。読みながら“気魄”を感じた。それも昂ったものではなく、重い想いを感じた。この“重さ”はなんだろうと思い、法政大学の田中総長に連絡が取れる友人に電話した。「田中さんの原稿を読んでいて、遺言というか、後世に託すような気魄のある文章を読んだのだけど……」と連絡したら、「3月で総長を退任されるからかなあ」ということであった。であれば、「ぜひお会いしたい」旨を伝えてもらい、対談が実現した。

 田中優子さんといえば、六大学初の女性総長。いつも着物姿、名前の挙がる江戸文学者として数々の受賞など、本人にお会いする前からスラスラと周りに紹介できるほど高き山を築いておられる。もちろん、物事を分析し指摘するアルゴリズムの明快さと、同時に鋭さについては理解している。が、今回の対談では事前の知識や先入観を白紙にして臨んだ。今回の『千人回峰』で、私は対談者として、ライターは高谷さん、長谷川さんはフォトグラファーとして田中さんをそれぞれに切り出した。さていかがでしょうか。

 友人に神職が多いので、私は着物姿は見慣れている。違和感なく接することができた。「この着物は新潟の織物屋さんから戴きました」。着物は戴くことが多いが、「もちろん自分でも買っていますよ」と話された時の悪戯っぽい笑顔に、これは素顔なんだと思い、こちらが照れ臭かった。着物と帯は不可分の間柄だ。「この帯は父の袴を仕立て直したもの」と口にされた時の自慢げで少し嬉しそうな表情にも素顔を見た。田中さんの大学生時代は学生運動の真っ只中にあった。話題をそこに振った。学生運動はしましたか、と聞いた。というか、聞かざるを得ない私たちの同世代の青春だ。すると、私を見据えて「思想の論戦はしたけれど、運動には加わらなかった」と。私の感じたままを記すと、「フィジカルな運動は嫌いだ」といったニュアンスで伝わった。そうかもしれない。そうだろうなと肯定できた。
 
 『千人回峰』では相手の方の生い立ちをたずねることが多い。人とはなんぞやというテーマを掲げての対談では、ルーツを聞くことが大切な要素となるからだ。遺伝子を聞き分けているのかもしれない。話題は平塚らいてうを慕って上京した女性に及んだ。3人の子どもがいて「すべて父親が違うのよ」とニヤリ。思わず息を呑んだ。このニヤリの心根は何なんだろう、と。その瞬間にさまざま考えたものだから、息を呑むことになったのだ。これは素顔と仮面ではない。両方とも素顔なのだと思った。
 


心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第279回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

田中優子

(たなか ゆうこ)
 1952年生まれ、神奈川県出身。法政大学文学部日本文学科卒業。同大学院人文科学研究科修士課程修了、博士課程単位取得満期退学。法政大学社会学部教授、社会学部長等を経て、2014年から2021年3月迄法政大学総長。2021年4月より法政大学名誉教授。江戸近世文化・アジア比較文化を専門とする。2005年紫綬褒章受章。著書『江戸の想像力』は芸術選奨文部大臣新人賞を受賞し、江戸文学・文化研究で名をあげ、エッセイストとしても活躍。『江戸百夢』ではサントリー学芸賞、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。近著には『日本問答』『江戸問答』『苦海・浄土・日本』など。その他の著書多数。