フランス文学者のエッセイに触れ 江戸文化の研究にのめり込む――第279回(上)
田中優子
法政大学 総長
構成・文/高谷治美
撮影/長谷川博一
2021.3.2/法政大学の総長室にて
週刊BCN 2021年3月29日付 vol.1868掲載
【東京・市ヶ谷発】法政大学の総長室は大きな会議テーブルの片隅に、着物姿を確認する姿見2台と机、パソコン1台という設えだった。東京六大学初の女性総長として法政大学を改革、牽引してこられた田中さんは、この春3月31日をもって任期満了が決定している。大学にミュージアムを作られたのは、さまざまな角度からものを考える拠点が大切だからとおっしゃる。ご自分の人生においても、「わかりたい」「どんな仕組み?」「どういう発想をしているのだろう」と、ここ法政大学で学生として探索を始め、江戸文化に行き着く。さて、今回は読者の皆様に江戸教養のお時間を……。
(本紙主幹/皇學館大学評議員 奥田喜久男)
江戸っ子の頭の中を
鮮明に教えてくれた衝撃の一冊
奥田 江戸文化研究のきっかけは何だったのでしょうか?田中 法政大学文学部日本文学科の3年生の時、現代文学の小田切秀雄先生のゼミに入りました。このゼミで、フランス文学者で小説家でもある石川淳を研究テーマにしたことが、江戸文学との出会いにつながりました。
当時の法政大学には、小田切先生のほかに言語学の野林正路先生や、古代文学の益田勝実先生、近世文学の廣末保先生など、興味深い教授陣が在籍されていたのです。法政大学を勧めていただいたのは、高校時代の国語の教師で、部活の編集部の顧問だった方です。私が本を読んだり書いたりすることに熱中していることを理解し、「あなたには自由な校風の法政大学が合っているのではないか」とアドバイスしてくださいました。
奥田 高校の編集部ではどのようなことをしておられたのですか?
田中 カトリックの女子校だったのですが、学校全体のことをテーマにする雑誌を作っていました。テーマを決めて写真も撮って、記事を書いて編集しますが、時々は自分の書いた小説や評論も掲載されたりしました。
奥田 物書きになる前の準備運動だったわけですね。ところで、フランス文学専門の石川淳と江戸文学でつながった理由は?
田中 これは私にとって一生を決める出来事でした。現代文学の小田切ゼミの3年生の時、昭和10年代の作家を調べて発表する課題があり、先生が候補を何人か挙げました。その中に石川淳がいました。それで私は石川淳を選んだわけです。
石川淳は芥川賞作家で、戦中に『マルスの歌』という小説を書いています。マルスというのは戦いの神様で、これが反戦小説だという理由で発売中止になった作品でした。私は石川淳に興味をもち、全集を買い込んで読みました。その中に小田切ゼミの目標とはまったく違うものを発見したのです。
ほんの数ページに渡る『江戸人の発想法について』といったエッセイでした。ここに書かれていたことに衝撃を受けてしまったのです。江戸文学についてそのような視点で書いている人はおらず、初めて江戸時代に関心を持ちました。
私は近現代が専門でしたし、古代・中世の文学も好きでしたが、江戸文学にはまったく興味がなかったのです。ここだけはやらないだろう、と思っていたくらい避けていたのです。
奥田 どんなところに衝撃を受けられたのですか?
田中 江戸人の発想の中では、「やつし」「見立て」「俳諧化」が行われている。そこでは自己、自分という考え方が近現代人と全く違うのです。一人の人間の中に複数の存在がある。歴史的な重層もあり、同時共存もある。それを周りの人も知っている。だから名前を使い分けるんです。いくつもの名前で、少人数、小規模の創造共同体を作る。そういう社会像、そういう自画像があったという衝撃です。
奥田 まるで現在のインターネット社会で、アカウントをいくつも持つような現象がすでにあった、と。
でも、江戸時代は長いのですが、この自己の多層人格を表現しているのは何年ぐらいからのことでしょう。
田中 およそ西暦1780年前後です。ちょうど“江戸っ子”という概念ができてくる時代といっていいでしょう。『江戸人の発想法について』には「見立て」「やつし」「俳諧化」という言葉が出てきます。こういう創造過程の中にも、もとのものとそれのパロディ、もとのものとそれのやつしという関係で創造がなされていたと。一人の人間が、目の前に誰かがいるときには名前を持ったその人。「でも、その人はもしかしたら大日如来かもしれない、お釈迦様かもしれない」と考えていたのだと。
仏教の世界ではあり得ますが、人間についてこんなふうに考える時代が日本に存在したとは……。
奥田 それは個人が考えたのですか? それとも複数の人が?
田中 社会全体がそうなっていたようです。おもしろいのは文芸がその考えを支えたのです。俳句は江戸時代には「俳諧」と呼ばれていました。「滑稽」という意味です。俳諧は江戸時代を通して、社会全体に広まっていました。また1780年ごろには「天明狂歌」という、『古今和歌集』を核にしたパロディが流行し、これもまた文学運動だと石川淳は表現していました。
これらを通じて、江戸の世界が見えてくるのですが、古代や中世、特に平安時代からいろいろなものを受け継ぎながら成り立っていた時代です。
奥田 こうして江戸時代にのめり込んで大学院に進まれたわけですね。
田中 近現代文学をやっていたのに、突然、方向転換したのです。何か非常に大事なものがわかったのですが、「何がわかったのか」をわからなかった。それを知りたかった。そのためには勉強するしかなかったので、大学院に行こうと決心しました。
奥田 すごく強い思いなんですね。情熱ですね。
田中 成し遂げたいと思ったのです。
読んだり書いたりすることで
ようやく外の世界とつながった
奥田 ところで、子どもの頃から物書きになろうと思っていらっしゃいました?田中 そうですね。というのも、私は人前で話ができない子だったのです。子ども心に集団の中に入れない劣等感がありました。世界とつながっていない感じが始終つきまとっていたのです。ですから、いつも一人で本を読んだり、なにか書いたりしていたのです。分厚い日記帳を一冊持って。
奥田 いつぐらいから? どんなものをお書きになっていたのでしょうか。
田中 小学生になってからですね。日記のようなものに思いついたことを書いていました。歌を思いついたら五線譜を作って曲まで作ってしまうような。
奥田 本はどのようなものを読まれていました?
田中 私は横浜の下町で育ちました。当時、新刊書の本屋は少なく、新刊を買うような家庭状況でもなく、両親は古本屋によく行くもので、ついて行きました。雑然といろいろな本があり、そこで偶然出会ったものや興味を持った本を次から次へと読みましたね。特にエドガー・アラン・ポーやフランスの詩集など翻訳物が好きでした。
奥田 それで本の広い世界の中に入られるわけですね。
田中 読んだり書いたりすることで、ようやく外の世界とつながっていくんです。そういう子どもでした。
また、父の影響が大きかったと思います。本をとにかくよく読む人で、文章もうまかったですね。家の本棚は父の蔵書であふれていました。
奥田 お父さまは何をされていたのですか?
田中 父は小学校しか出ていないんです。戦前のことですから、小学校を出て本屋の丁稚に入りました。なぜ本屋の丁稚かというと、本を読みたいからと。ところが、忙しくて本が読めないことがわかった、と言っていました。独学で勉強して高卒の免許まで取った努力家です。
私が中学生のころ、空調関係の機械設計師として独立しました。父の会社は間もなくつぶれたのですが、私と兄を私立の中学と高校に通わせ続けてくれました。
奥田 法政大学のトップに上り詰められた田中さんは、努力家のお父さまに大きな影響を受けてこられたわけですね。(つづく)
お父さまの袴を帯に
仕立てて粋に装う
田中さんは34歳の時に『江戸の想像力』を上梓された。講演依頼が殺到し、着ていくものに困って、初めの頃はお母さまの着物をお召しになって出演されたそうだ。それ以来、粋で端麗な着物姿が田中さんのトレードマークに。この帯はお父さまの袴を帯に仕立て、宝尽くしの日本刺繍を施したお気に入りの品。心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
田中優子
(たなか ゆうこ)
1952年生まれ、神奈川県出身。法政大学文学部日本文学科卒業。同大学院人文科学研究科修士課程修了、博士課程単位取得満期退学。法政大学社会学部教授、社会学部長等を経て、2014年から法政大学総長。江戸近世文化・アジア比較文化を専門とする。2005年紫綬褒章受章。著書『江戸の想像力』は芸術選奨文部大臣新人賞を受賞し、江戸文学・文化研究で名をあげ、エッセイストとしても活躍。『江戸百夢』ではサントリー学芸賞、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。近著には『日本問答』『江戸問答』『苦海・浄土・日本』など。その他の著書多数。