生徒たちの心に大きな影響をもたらした被災地での交流――第275回(下)

千人回峰(対談連載)

2021/02/05 00:00

高橋美千子

高橋美千子

玉川学園高等部 音楽科教諭

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子
2020.12.17/東京都町田市の玉川学園にて

週刊BCN 2021年2月8日付 vol.1861掲載

【町田発】本文でもふれているが、ハンドベルという楽器は一つの音しか表現できないため、他の楽器のように一人の奏者だけでメロディを奏でることはできない。でも、演奏するメンバーの数が増えるほどに、その曲の厚みは増し、「点の音楽」から線や面、そして立体的な音楽に変貌する。髙橋先生は、ハンドベルクワイアのメンバーは一緒に演奏する仲間を思いやる気持ちが強いという。一人でも体調を崩して休んでしまったら、曲が成り立たなくなってしまうからだ。こうした活動を通じて、強い気持ちと優しい気持ちが涵養されることに思い至る。(本紙主幹・奥田喜久男)

2020.12.17/東京都町田市の玉川学園にて

コンクールだけにこだわらず
身近なさまざまな場での演奏を大切にする

奥田 ところで、高橋先生はどこでハンドベルと出会ったのですか。

高橋 私は18年前、母校である玉川学園に音楽科の教師として戻ってきたのですが、このときハンドベルクワイアの顧問になったことがその出会いですね。

奥田 ということは、それまでは別の楽器を?

高橋 はい、中学部のときにオーケストラに入り、比較的、体が大きかったのでチェロを担当しました。そして大学は当時の文学部芸術学科に進み、そこではピアノを専攻したのです。

奥田 ハンドベルの第一印象はどのようなものでしたか?

高橋 ハンドベルは音楽を奏でる楽器であることに違いはありませんが、当時は「これは音楽ではない」と思いました。弦楽器や管楽器には音の持続性がありますが、ハンドベルは音がつながっていかず、一度鳴らすと後は落ちていくしかないので「点の音楽」だというのが最初の印象だったのです。ですから、当初はどうやって活動していくか悩みましたね。

奥田 音楽を専攻された高橋先生でも、最初は違和感があったと……。

高橋 そうですね。それから、年に一度のコンクールに向けて一曲に絞って仕上げていき、後はクリスマス礼拝での演奏と学内の成果発表会だけという活動内容でいいのかとも考えました。

奥田 確かに少し単調で、広がりがないような感じですね。

高橋 私もいろいろと模索していたのですが、中学生だけで行っていたハンドベルクワイアの活動を高校生と一緒に行うことになり、そのタイミングで、コンクールの出場をやめて「演奏活動に専念してみては」と提案したのです。2カ月に1回程度、地域の高齢者センターや幼稚園などを訪問して演奏してみようと。それが2007年のことです。

奥田 それは大きな方針転換ですね。

高橋 はい。それで次の年の2008年からは、夏休みに全国を順番に回ろうと考えました。その地方のおいしいものが食べられるし、新しい出会いも生まれるだろうということで、最初は北海道に5泊6日。5カ所で1日に4公演を目標にして、保育園、幼稚園、高齢者施設、そして感謝の意味も込めて宿泊したホテルのロビーでも演奏しました。

奥田 なるほど、地域のいろいろな場で、演奏を通じたコミュニケーションが生まれますね。

高橋 その後、2009年は九州の長崎、福岡、宮崎の3県を回り、10年には東北の岩手、宮城、福島を回るなど、さまざまな地域でたくさんの人たちと交流をもつことができました。

奥田 北と南で、互い違いに演奏旅行を行っていったわけですね。

東日本大震災の翌年から
毎年、被災地を訪問し続ける

高橋 ところが、ご存知のように2011年には東日本大震災が発生し、東北地方は壊滅的な被害を受けました。生徒たちからも、去年訪問して会った方々は大丈夫なのかという心配の声が上がったのです。

奥田 ことに前年の夏に行かれた3県は、たいへんな状況に陥りましたね。

高橋 2011年はそんな混乱状況にあったので、国内の地方を訪問することは中止にして、東北の人たちに私たちが何かできないかと考えました。この年は5月に学園の施設があるカナダに行ってチャリティコンサートを開いたり、国内では東京でのみ公演を行いました。

奥田 できる限りのことをしようと……。

高橋 この震災を機にこれまでのやり方を変えて、翌年の2012年からは毎年東北を訪れることにしました。20年はコロナ禍で訪問はかないませんでしたが、それまでの8年間は連続で同じ地域を回ったのです。

奥田 震災翌年の2012年は、どんな様子でしたか。

高橋 その年の夏は、まず中尊寺にお邪魔し内陸の町を訪問した後、大船渡、気仙沼、南三陸などの沿岸地域を回りました。中尊寺ではたいへんな状況にもかかわらず素晴らしいお言葉をいただき、逆に私たちが元気づけられたことを覚えています。

 この年は、楽器は携えていったものの、町中にがれきが残り、落ち着いて演奏できるような状況ではなかったためハンドベルの演奏はせず、仮設住宅などで讃美歌を歌いました。当時、福島には原発事故の影響で入ることができませんでしたが、2016年からは南相馬などの町も訪問しています。

奥田 子どもたちとともに震災の状況を目の当たりにして思うところはいろいろとおありでしょうが、この8年連続の東北ツアーを通じて、とくに印象に残ったことはありますか。

高橋 狭い仮設住宅の部屋にベルを並べて、本当にみなさんの近くで演奏するのですが、その演奏を聞いて涙を流される方もいれば、感想を話してくださる方もいます。同じ「ふるさと」を演奏しても、「ふるさとのことを思い出したよ」といってくださる方もいれば「もう、ふるさとはないんだよね」と話す方もいます。そうしたコミュニケーションは、生徒たちにとっても私たち教師にとっても貴重な機会であるとともに、いろいろなことを考える機会にもなりました。

奥田 単に一方通行の演奏ではなく、地元の方々から返ってくるものがあるということですね。

高橋 はい。演奏時間は20~30分で、交流の時間は30~40分と、直接コミュニケーションをとる時間のほうが長いくらいなんです。「最近はどうですか」と生活の様子を聞いたり、楽器に自由に触っていただき、実際に音を出してもらう。管楽器などに比べ、ハンドベルはコミュニケーションツールになりやすいのですね。

奥田 中高生が初めて会った方に話しかけること自体、簡単ではないし、いい経験になりますね。

高橋 そうですね。話す相手もお年寄りだったり幼稚園児だったりといろいろですが、そうしたやり取りも生徒たちの糧となると思います。それから、コミュニケーションといえば、花巻と喜多方では毎年同じお宅に民泊をさせていただいているんです。なかには、中学1年のときから高校3年まで6年連続で同じ家にお世話になっている子もいます。

 朝4時起きでキュウリの収穫を手伝ったりすることで地元の生活を実感でき、民泊先の方から「ずいぶん大きくなったね」と親類の子のように思ってもらえることも一つの宝ではないかと思います。

奥田 震災はとても不幸な出来事ですが、こうした人と人のつながりをつぐみ、ハンドベルという楽器のすばらしさを再確認するきっかけとなったのですね。コロナ禍でまだ不自由を強いられているかと思いますが、今後もますますのご活躍、期待しております。

こぼれ話

 高橋美千代先生が担当する部活動の楽器はハンドベルだ。楽器の機能上、単音しか出ない。だからお玉杓子の音階の種類だけのハンドベルが必要だ。単音の楽器は 「人のひと振り」が続くことで楽曲を奏でる。音をつくることに限りのある楽器なだけに、素朴な単音の連続が素直にその時と場の情景を同化させる。東日本大震災の被災地で奏でたハンドベルの単音は、被災された方々の心にどのような風景を刻んだのだろうか。時を超えて、ふとした時に蘇るのではないか。

 あれはバンガロールを旅した時だ。明け方、一番鶏の鳴き声で目が覚めた。「コケコッコー」を3回聞く頃には、鶏の場所が特定できた。オヤッ、ここはどこなんだろう。小学校の夏休みによく遊びに行った母親の実家の風景が浮かんだ。夢うつつに、変だな、そんなことないだろう。ここはインドのはずだ。インターネットが普及し始めた頃、友人の招きでソフト会社を訪ねた。取材を終えて夕食をご馳走になり、夜遅くホテルに戻って寝た翌日の記憶だ。その街はインドのシリコンバレーと言われている。本当にあったことなのだろうか。一番鶏の鳴き声は今も、その時と同じ情景で思い出す。音と映像が同化しているのだ。

 音を出す楽器はいろいろある。弦楽器、管楽器、打楽器。そういえば、小学3、4年の担任が音楽の先生だった。クラシックを聴く授業があって、クラスの子が曲の名前を答えていることに、恐ろしく驚いた。この記憶は、これまでに数回しか思い出したことがない。曲は出てこないで後藤勇先生の馬のように細長い顔と教室の風景が記憶によみがえる。この時にアントニオ・ヴィヴァルディの四季に出会った。

 上野公園には鐘撞堂がある。6時、12時、18時に聞こえてくる。最初の3回は早く撞き、後の6回は間があいて鳴る。単音とはいえ、寄せては返す余韻が耳の奥まで浸透する。誰が撞いているのか気になり、早朝出かけてみた。上野精養軒の近くだ。すでに鐘撞堂を見上げる集団がいる。九つ目が鳴ると、皆さん一斉に「ありがとうございました」と一礼した。お堂の人はお辞儀をして消えた。「ごーん」と聞こえるたびに、その情景を思い出す。
 
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第275回(下)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

高橋美千子

(たかはし みちこ)
 1975年、東京・築地生まれ。小学部から玉川学園に通い、中学部からはオーケストラに入部しチェロを担当。大学は文学部芸術学科に進み、ピアノを専攻する。99年、芸術専攻科修了後、高崎芸術短期大学(当時)で教鞭をとった後、フリーランスのピアニストとして活躍。2002年、玉川学園中学部教諭(音楽科)となり、ハンドベルクワイアの顧問となる。