AIは神秘的で可能性にあふれ チャレンジングでチャンスをもたらすもの――第249回(上)

千人回峰(対談連載)

2020/01/06 00:00

斉 紅威

斉 紅威

数据堂(北京)科技股份有限公司 創設者兼CEO

構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子

週刊BCN 2020年1月6日付 vol.1807掲載

 斉さんは長年、人工知能(AI)の研究者として知見を積み、9年前、その事業化に踏み切った。今、まさにAIが私たちの生活のさまざまな場面で利便性を発揮する時代に突入し、斉さん自身もそのトップランナーの一人として飛躍を遂げつつある。ただ斉さんは言う。「現在あるAIは“弱”人工知能だから暴走する恐れはない。でも、この研究をすればするほど、危機感を持つようになった」と。技術の進化は時として人類に害を及ぼすが、先端を行く人がそうした想像を働かせていることを知り、少し安堵した。(本紙主幹・奥田喜久男)

2019.11. 8/BCN22世紀アカデミールームにて

大学院とNECの研究所でAIのエキスパートに

奥田 斉さんはAIのデータサービスプロバイダ数据堂(Datatang)を創業され、現在、この分野では中国でトップを走っておられます。まず、ここに至るまでの斉さんの歩みについてお話しいただけますか。

 私は北京に近い河北省の出身で、天津にある河北工科大学で機械工学を専攻しました。1998年に卒業した後に同大の修士課程に進み、ここでAIの研究を始めたのです。

奥田 大学院に進んでからAIと出会ったわけですね。

 はい。そして2001年に修士課程を修了し、私は中国科学院の自動化研究所に進みます。ここでもAIの研究を続け、04年に博士号を取得しました。中国科学院で研究するかたわら、03年にはインターンシップでNEC中国の研究員となり、そのまま11年8月までの7年間余りNECに在籍しました。

奥田 NECではどんな仕事をされたのですか。

 AI技術とその応用の研究です。主に、画像処理と音声処理の技術ですね。それから、NEC在籍中の07年から08年にかけて、米スタンフォード大学に客員研究員として派遣されました。

奥田 NECの研究所に勤務して、よかったと思われる点はありましたか。

 いちばん大きかったのは、多くのAI技術にふれることができたことです。当時、NECはAIに多額の投資をしており、その顔認識の技術は世界のコンペでトップを獲ったほどレベルの高いものでした。ですから、成田や羽田空港の入国審査の際の指紋認証や顔認証の機器はNEC製ですね。最高レベルの技術に接することができたことは、私にとって大きな刺激になりました。

奥田 なるほど。そのほかにNEC時代で印象に残ったことは?

 その頃、私は基本的に北京にいたのですが、北京にいながらにして、米国、ドイツ、日本などの研究者と交流することができたことですね。当時、NECの研究所は東京・大阪のほか、中国、米国西海岸・東海岸、ドイツなどに拠点があり、全体で数千人規模の研究者がいました。そうした人たちとつながりを持つことで、国際的な視野が広がり、AI技術についての知見を深めることができました。

 研究所の組織は、通信、ネットワーク、情報の3部門に分かれており、私はAIを研究する情報部門の部長を務めました。ここで私は、知識や経験を積み重ねたことに加え、管理能力も鍛えられました。ですから、今でもNECにはとても感謝しているんです。

リアルな機械の世界からスマート化の世界へ

奥田 大学院に進んでからAIに出会ったということですが、斉さんが専攻された機械工学とAIとでは、少し分野が違うような気がします。

 そうですね。学生の頃はあまりその関係性を感じませんでした。しかし今は「スマート製造」の進展などにより、密接な関係にあるのですよ。

奥田 なるほど。ところで話が元に戻るようですが、斉さんはなぜ大学院でAIを学ぼうと思ったのですか。

 機械工学を学んでいた頃の成績はトップクラスでしたが、そんな中で私はCADに興味を持つようになりました。つまり、いかにコンピューターを使って機械の設計をするかということが、AIへの関心につながっていったのです。

奥田 それで機械工学からAIの世界に関心が及んでいったわけですね。

 そうですね。AIとの出会いによって、リアルな機械の世界から別の世界、つまりスマート化の世界が見えてきたんです。AIは、神秘的で、可能性にあふれ、チャレンジングであり、チャンスをもたらすものであると感じました。

奥田 AIのことを知ったときから、そう思われたのですか。

 そうですね。最初からそう感じました。起業する人に共通することかもしれませんが、私は新しいもの好きなので、ピンときました。

奥田 当時から、これはビジネスになると思っていたのですか。

 当時は学生だったこともあって、ビジネスについてあまり深くは考えませんでした。でも、新しい技術だからそうしたチャンスはあると感じていましたね。

奥田 まだ、当時は経営者ではなく研究者の眼で見ていたわけですね。

 私は、とても運がよかったと思っています。98年から01年までは修士課程、01年から04年までは博士課程で学びましたが、まだAIはブームになっていませんでした。先ほどお話ししたように、私はNECで研究員として働いた後、11年に起業するのですが、これは絶好のタイミングでした。60年代に理論化され、多くの学者や専門家がその研究に携わり、今から5年ほど前に実用化・応用化が爆発的に進展したからです。これは神様が与えてくれたチャンスだと思いました。

奥田 中国ではAI教育は進んでいるのですか。

 中国に大学は2000校以上ありますが、そのうちコンピューターサイエンスやソフトウェア関係の学科を持っている大学が800校ほどあり、そのほとんどがAI専攻の大学院を併設しています。昨年から学部レベルでもAIを専攻する学科が増えたため、AIを学ぶ学生が増えていることは間違いありません。

 また、北京、上海、杭州といった大都市の高校や中学では、課外活動でAI知識の普及や簡単なプログラミングを行うところが増えています。大都市の家庭では、将来、社会が知能化(スマート化)していく中で、AIの知識を学ぶことが子どもにとって必須であると考える親が増えたからです。

 実は私も、自分の子どもが通う学校の先生から、小学校6年の子ども向けにAIの講義をしてくれないかと依頼されたことがあります。

奥田 ほう、子どもたちの反応はどうでしたか。

 基本的な原理は理解してくれましたが、AIで実際に何ができるかということのほうに関心が集まりました。そこで、いくつかの事例を挙げたのですが、その後の子どもたちからの質問が印象深かったですね。

奥田 たとえば?

 「AIが何でもできてしまうと、人間の価値がなくなってしまうのではないか」とか「AIが何か悪いことをしたら取り返しのつかない社会になってしまうのではないか」という危機感ですね。現在のAIは自主学習する能力がありませんから、今のところそうした心配はありませんが、研究開発する立場でも、実は同じことを考えているわけです。(つづく)

愛用のアウトドア用スカーフ

 斉さんは3年前にジョギングを始め、このスカーフをいつも首と顔に巻いて走っているそうだ。「特に寒い日には欠かせません。私の生活スタイルが極めて不健康的なものから規律正しい生活に変わったことをこのスカーフは見守ってくれました。ジョギングは私をつくり変えてくれたのです」と話してくれた。
 

心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第249回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

斉 紅威

(Qi Hongwei)
 1975年、中国河北省生まれ。98年、河北工科大学機械工学科卒業。2001年、同大学院修士課程修了。04年、中国科学院自動化研究所にて人工知能のパターン認識で博士号取得。同年NEC中国研究所に入社。知的情報処理研究部長、上級研究員を務める。06~07年、スタンフォード大学コンピューターサイエンス学科客員研究員。11年、数据堂(北京)科技股份有限公司を設立し、CEOに就任。中国コンピューター協会ビッグデータ専門委員会、同協会YOCSEF(Young Computer Scientists & Engineers Forum)学術委員会のメンバーも務める。