写真に興味のなかった青年が巨大量販店とともに人生を刻む――第244回(上)
加藤忠行
ヨドバシカメラ 元専務取締役
構成・文/小林茂樹
撮影/山中順子
週刊BCN 2019年10月14日付 vol.1796掲載
3年前、この「千人回峰」に登場していただいた西岡隆男さん(ニコンイメージングジャパン元社長)と、今回ご登場いただく加藤忠行さん、そして私の3人は、しばしば杯を傾けあう間柄だ。ある晩、よもやま話をする中で、加藤さんにこの対談取材の話を持ちかけると即座に快諾していただいた。とてもうれしかった。ヨドバシカメラといえば誰もが知る巨大家電量販店だが、その草創期からの歩みを知る人は案外少ない。当時のやり取りや風景が浮かび上がるような話を、たっぷりうかがうことができた。(本紙主幹・奥田喜久男)
大学時代のアルバイトが一生の仕事になるとは……
奥田 加藤さんがヨドバシカメラを辞められて何年になりますか。加藤 2016年4月末に退任し、非常勤顧問としては翌年4月まで籍がありましたが、実際には3年以上会社には行っていませんね。
奥田 最初にヨドバシカメラとかかわりを持たれたのは?
加藤 大学1年生のとき、1968年9月にアルバイトで入ったんです。藤沢昭和社長と社長のお父さんのほか、従業員が私以外に3人しかいなかった時期です。
奥田 加藤さんが6人目ということですか。
加藤 そうですね。今、西口にカメラ館という小さな店舗がありますが、あの路地を入ったところに、14~15坪くらいの建物があったんです。一階が店舗、二階が倉庫、三階が住まいでした。間口が3~4メートルの小さな店でした。その頃は小売りをやっておらず、現金卸だけでしたから。
奥田 どんな商品を扱っていたのですか。
加藤 カメラ関連の商品と写真用品、つまり印画紙や薬品などですね。
奥田 68年のカメラというとどういうものが?
加藤 ペンタックスだと、スクリューマウントのSPがブームでした。それからオリンパスペンFとか。キヤノンのAE-1はまだ出ていない時期だから、ペンタックスの全盛でしたね。
奥田 アルバイトではどんな仕事をしたのですか。
加藤 現金卸ですから、小売店から注文された商品を、午前中に仕入れに行くんです。その商品を車に積んで小売店に届けて、そこで現金と引き換えてくる。当時、まだ18や19の学生にそういう仕事をさせてくれてました。
奥田 仕入れはどこに行くのですか。
加藤 あちこち行きますが、神田に「大業(たいぎょう)」という二次問屋がありました。主にそこで仕入れをしていましたね。大学が休みの日は仕入れに行きましたが、平日の午前中は大学に行っていますから、仕入れには他の人が行き、大学から帰ってくると車に荷物が積んであって、私がそれを持って配達に行くわけです。あの頃は、午後から出ても20件くらいは配達できたんですよ。遠いところでは、埼玉の所沢や朝霞のあたりまで行きましたね。
奥田 そのとき、生涯の職業になるとは……。
加藤 思っていませんでした。私の母親と社長がいとこという縁もあり、よそで時給150円だったところ、社長は180円くれると言ったんですよ。それなら行くと(笑)。だいたい写真に全然興味がなかったんです。仕事ですからそれなりの知識は身につけたけれど。
現金卸から小売りへの転換が大きな成長のきっかけに
奥田 アルバイトからそのまま就職ですか。加藤 そうですね。実は大学2年の終わりに中退したんです。周囲からはずいぶん反対されましたが、それをきっかけに70年4月に正社員として入社しました。このときもまだ従業員3人で、私を含めて4人という時代でした。
奥田 ヨドバシカメラはどのようにして、企業として成長していったのでしょうか。
加藤 一番の成長要因は小売りを始めたことです。申し上げたように、それまでは現金卸ですから、「仲間」といわれるブローカーから安い商品を集めて、その情報を小売店に連絡して買ってもらうという商売でした。だから小売りへのシフトは、大きな転換点になりましたね。
奥田 時代の変化ですね。小売りを始めるきっかけは何だったのでしょうか。
加藤 近くの中野に東京写真大学ができたんです。今は東京工芸大学といいますが、昔は「写大」と呼ばれていました。その写大の学生が、よくフィルムや印画紙などを買いに来たんです。社長は「小売店じゃないけど売ってあげよう」と言っていました。それがだんだん成長していくと、社長も考えたんでしょうね。
奥田 小売りのメリットを感じたと。
加藤 人件費とクルマを使って届けに行くよりは、店頭に来てもらって同じ値段で売ったら、そのほうが効率がいいじゃないかと。それで、昔は「特価表」といわれるチラシを、現金卸の会社が小売店によく配っていたのですが、それと同じようなものをお客さんが自由に持っていけるよう店頭に置いたんです。すると、一般のカメラ好きのお客さんがどんどん買いに来てくれるわけです。それだけでなく、北海道や九州など全国から現金書留が届き、注文が入るようになりました。
奥田 どうして北海道や九州の人が?
加藤 たぶん、そのチラシを何らかの形で見たのでしょうね。ずっと後の話ですが、札幌に店を出したときに、通信販売で買っていた地元のお客さんがだいぶいることが分かりました。カメラマニアは品揃えのよさを重視する傾向がありますので、北海道にいても東京から買っていたんですね。
奥田 品揃えの威力……。
加藤 そうですね。写真材料商組合が出しているカメラ関連の商品が全部載っている冊子があるのですが、小売りを始めてからはそこに載っているものは基本的に全部揃えるようにしましたから。お客さんがメーカーに電話して「こういう商品がありますか」と聞いたら「それはヨドバシにありますよ」と答えてもらえるように揃えたんです。それが一つの魅力になったのでしょうね。「カメラに関するもので、ないものはない」「メーカーにあるものは、ヨドバシに行けば全部ある」と。
奥田 カメラのボディやレンズだけではなく、それ以外の商品も揃えたわけですか。
加藤 パーツからフィルム、薬品、印画紙など全てです。かつて、8ミリのパッチテープ、フィルムをつなげるテープがあったのですが、メーカーで製造中止になっても、在庫がなくなるまで当店には置いていました。これは一例ですが、どんなにニッチなものでも品揃えしたんです。
奥田 品揃えの大切さについて、加藤さんはかなり意識されていたのですか。
加藤 社長の指示で始めたことですが、私たちは途中からその重要性に気づきました。カメラショーなどの展示会は必ず見に行ってチェックしましたし、当初はまだコンピューターがなく、それによって管理できませんでしたから、ニコン担当、キヤノン担当、オリンパス担当というようにそれぞれのメーカーごとに分担して、品揃えに責任を持たせました。担当者は、全ての商品名を暗記するぐらい一生懸命取り組んでいましたね。
(つづく)
加藤さんのお気に入り
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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Profile
加藤忠行
(かとう ただゆき)
1949年10月、東京・新宿生まれ。國學院大學中退後の70年4月、淀橋写真商会(現ヨドバシカメラ)入社。仕入れ、販売、営業の各部門長を歴任。2016年4月、専務取締役を退任し非常勤顧問に。17年4月、非常勤顧問退任。