世紀を超えて生きる「いのちの輝き」を私が「100歳」になってもずっと撮り続けていきたい――第235回目(上)
写真家 山中順子
構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子
週刊BCN 2019年6月3日付 vol.1778掲載
山中さんは感受性豊かな少女時代からさまざまな経験をし、さまざまな人との出会いから仕事を通じて、さまざまなものを創り出し、また表現してきた。その中で、おそらく最も大きな比重を占めるのは、奄美群島の人々や自然との出会いであろう。お話をうかがっていると不思議なくらい多くの縁に恵まれて、あるいは縁を引き寄せて、歩みを進め深めていることが分かる。「私は人生を旅する探求者、だから行動し続ける」という彼女の言葉が腑に落ちた。(本紙主幹・奥田喜久男)
「早く自立し一人で生きていく」と尖っていた少女時代
奥田 山中さんは写真家として活躍されるかたわらさまざまな仕事に携わっておられますが、その中核をなす奄美の島々とはどのようにして出会ったのですか。山中 20歳のときに、奄美群島の最南端・与論島(よろんじま)に行ったのが、初めての奄美群島との出会いです。たまたま広島在住のお坊さんが、私と友達の女子2人を連れて行ってくれたんです。
奥田 そのお坊さんとの接点は?
山中 新幹線で、偶然、後ろに座った方です。
奥田 そんなことがあるんだ。
山中 今はどこにいらっしゃるかも分からず連絡も取れないのですが、たしかに意味があり不思議な出会いでしたね。3人でご一緒した旅で、私は与論島のお墓を見て大きな衝撃を受けたんです。
奥田 与論のお墓は、どんな形をしているのですか。
山中 白い珊瑚の砂浜に木で作った家のような形のものが置いてあり、その横に茶色い壷が置かれ、それとともに傘、茶碗、箸、履物などが並べられています。珊瑚の平らな石が蓋のようにかぶせてあるのですが、その間から人の骨が見えました。それがみんな、海のほうを向いているんです。人が土に還るということはこういうことなのだと感じて、それが自分にとって宝物の記録のように思えました。
奥田 そうした感受性は、幼い頃から持っておられたのですか。
山中 9歳くらいから自覚があって、どうして私は生まれてきたのだろうとか、人は死んだらどこに行くのだろうとか、今日死んだら大好きな担任の先生にも会えなくなってしまうかもしれないと思い、「ありがとう」と言いに行って先生に驚かれたりと、いまだにあの感覚は何だったのかなと思います。
その頃から、大人に対してというか、社会や物事を俯瞰的に見るようになっていましたね。
奥田 ずいぶん早熟な子どもだったのですね。
山中 小学6年生くらいから、親に対しても社会に対しても常に牙をむいている感じで、背中には大きな刀があるようでした。「私は早く大人になって、自立し一人で生きていく」と、その頃から思っていましたね。
奥田 子どもの頃からかなり尖っていたと。それで、その後はどんな青春時代を過ごしたのですか。
山中 中学1年生のときにスカウトされて、コロムビアレコードに所属し、歌や演技、モデルのレッスンを受けていました。
奥田 スカウトされたとき、お母さんや友達に相談して、やると決めたのですか。
山中 いいえ、そういうことを相談したことはないですね。ただ、その仕事をするときに、母から「すべて自分に返ってくることだから、自分で決めなさい」と言われましたが…。
奥田 なるほど。お母さんも筋が通っていますね。
山中 でも、デビューする前の14歳のときに辞めました。早く大人になりたいとは思っていましたが、14歳でお酒の出るパーティーに呼ばれるような世界にいていいのかと。そのままそこにいたら、自分がなくなり壊れてしまうと思ったのです。
奥田 芸能界を辞めて、その後はどんな生き方をしたのですか。
山中 中学3年で両親が離婚。地元から引っ越し、別の学校に行くことになったのですが、実は、毎日10時以降に登校し勉強もせずに喧嘩ばかりの不良少女でした。当時あった新宿コマ劇場あたりが初めての家出です。中学校の卒業式に出た記憶もないくらいです。
奥田 今の山中さんからは想像できないけれど、もがきながらも自分の道を歩いたのですね。
山中 そんな経緯もあって、16歳から生きるために、楽しむために働き、26歳のとき、芸能プロダクションの経営を始めました。最初は、まずスカウトです。カメラを持ち、町を歩いている人に声をかけて、モデルになりませんかと。
奥田 そのときにカメラを?
撮られる側から撮る側に写真の楽しさに目覚める
山中 知り合いの芸能事務所の社長が、突然、私にカメラをくださったのです。また不思議なことが起きました。機種はニコンのF3。カメラなんか全然興味ないのにと思いながら、フィルムカメラで写真を撮れるようになろうといじっていました。それが楽しかった。考えてみれば、中学生の頃から友人の写真はたくさん撮っていたんです。自分の写真はあまり残っていません。そのときは、オートフォーカスのコンパクトカメラですけれど。奥田 撮られるほうじゃなくて、撮るほうが楽しいと気づいたと。
山中 そうですね。それで私は、そのカメラをもらったことで「これを使わなければ」と思ったんです。その当時にやっていた仕事が、あまりうまくいかなくてどうしようかと悩んでいたときに、「そうだ!私にはカメラがある」と。自分にあるもの、できること、できないことはなんだろうと思ったときに、自分が見えてきました。私に対する人の第一印象はわりといい、ほとんどの人が好感を持ってくれたり、相手を説得する力もあることに気づかされていました。それしかないんですね。お金もないし学歴もない。でも、女性の友達や後輩からは慕われ、私も芸能界に夢を見たのだから、カメラを持って街に出て、いろいろな子に光を当ててあげられたら楽しいだろうなと思ったわけです。
奥田 それで芸能プロダクションを立ち上げたと。
山中 まだ信用も事務所もお金もなく、あるのは私という生身だけです。最初は喫茶店で面接をするような状況でした。でもパソコンは18歳から使っていたので(勤めていた会社がNECの電子関係の子会社でプログラミングやパソコンを学びました)、企画書やプロフィールは簡単につくれます。そうして、1カ月に50人登録してもらい、その入所金で事務所を借り、赤坂スタジオやメイクさん、カメラマンさんと契約。いわゆる登録制のモデル事務所のはしりのようなことを始め、同時に養成所をつくり、1年後には全面ガラス張りの大きなスタジオも横浜・元町につくりました。
奥田 すごい馬力と勇気ですね。その仕事は楽しかったですか。
山中 楽しかったですよ。でも、人を動かしてお金を得るという仕事ですから、成功したような感覚でおかしくなってくることもありましたね。タレント養成所を経営していたので、タレントやモデルを派遣するわけですが、それがきっかけで写真を撮るようになり、私は週刊誌のヌードグラビアのカメラマンになるのです。
そんな中、私が30歳のときのこと、奄美大島出身の男性が、横浜でやっているプロダクションの仕事をぜひ手伝わせてくれと来られました。
奥田 奄美出身ですか。
山中 はい。その方がちょっと神がかりで、お母さんを早く亡くされているのですが、お母さんの声が聞こえるのだそうです。その人が私に「あなたは奄美にとって必要な存在になる。そして、あなたにとって大切な場所になる。だから奄美に行ってください」と言ったんです。
奥田 ちょっとスピリチュアルですね。
山中 それならば、ロケハンで奄美に行ってみようということになりました。芸能プロダクションですから、国内外へグラビアのロケで各地に行っているからです。(つづく)
『奄美100歳母なるシマ、生命の島。』と「奄美手帖」
山中さんが、2009年7月に出版した写真集。奄美の人々と自然・文化に魅せられ、いまも島の100歳を撮り続けている。そして「奄美手帖」は単なるダイアリーではなく、奄美の知恵が凝縮された内容だ。今年で刊行11年目を迎えた。心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
Profile
山中順子
(やまなか じゅんこ)
1970年6月、神奈川県横浜市生まれ。中学1年のときにスカウトされ、音楽・モデル養成のレッスンを受ける。92年からは店舗ブランディング、デザイン、フードプロデュースを手掛け、その後、芸能プロダクション有限会社サワンルーク、モデル&音楽養成所DIVAS MUSIC ACADEMYを設立。2000年より本格的に写真家としての活動を開始。奄美群島に通い、特に奄美大島との時間の共有から感じ取ったさまざまなアミニズム、センテナリアンの視点から世界観を発表している。133代奄美観光大使、徒根屋株式会社代表取締役、ファスティングマイスター学院顧問なども務める。