目指すのはワクワク感のある会社 必ずしもコンピューターにこだわらない――第226回(下)
中村憲司
大和コンピューター 代表取締役社長
構成・文/小林茂樹
撮影/松嶋優子
週刊BCN 2019年1月28日付 vol.1761掲載
近年、日本の農業を再生するため、ICT活用によるアイデアがいろいろな場で提起されている。中村さんが農業に取り組み始めたのはおよそ10年前。当初、異業種からの農業参入には、大きな壁があったという。しかし、農業従事者の高齢化や後継者難などの問題は待ったなしだ。大和コンピューターが取り組むメロンの養液栽培は、農場管理システムによる作業の合理化などに加え、年に4回までだった収穫を5回まで可能にした。まさに、世の中のために役立つ、ワクワクする新事業である。(本紙主幹・奥田喜久男)
世の中を変革するテクノロジー 昔も今も変わりない
奥田 中村さんご自身は、慶應の大学院でMBAをとられてIBMに入社されますが、当時、お父さんからのアドバイスは?中村 親から就職についての助言などは全然なかったです。好きなようにすればいいと。どうせサラリーマンは務まらないと思っていたんじゃないですかね(笑)。
奥田 IBMではどんな仕事をされたのですか。
中村 財務系の部門で働きました。もっとも3年ほどしか在籍していませんでしたが。
奥田 何歳のときに、お父さんの会社に戻ったのですか。
中村 1987年ですから、28歳のときですね。当時、たまたま父親が体調を崩して、一度大阪に戻ってきたらという話になったんです。戻ってみたら何のことはない、すっかり元気になってしまいました。そうしたら、「大塚商会さんなどお取引先の本社がある東京に支店を出すが、東京を知っている者がいないのでおまえが行け」と。東京から帰ってきたばかりなのに(笑)。
奥田 東京の支店は、中村さんが初代になるわけですね。それからもう30年。
中村 はい。行ったり来たりですが。
奥田 当時の会社の規模はどのくらいですか。
中村 拠点は大阪と東京だけで、60人いたかいないかくらいです。その後、沖縄やベトナムに拠点を作っていますが、いまはグループ会社を入れて170~180人ですね。関連会社としては、東京本社内にあるスポーツ系のASPサービス「フィットコム」、それと静岡県袋井市にある農業法人の「ルーツ」があります。
奥田 事業環境は、その当時に比べて変わりましたか。
中村 技術的な部分はもちろんいろいろ変わっていますが、ビジネスの環境という意味では、これから大きく変わるのではないでしょうか。これまでも、インターネットの時代が来たときなどは大きく変わったと思いましたが…。
奥田 今後、どう変わると。
中村 ピラミッド型の企業組織は今後変わっていくでしょうし、インターネットなりSNSを通じたコミュニケーションに象徴されるように、人と人とのつながり方もさらに変わっていくと思います。そうした文化的な部分を含め、事業環境はここから10年くらいで徐々に変わっていくのではないかと思います。
奥田 変化の基盤となるのは、インターネットですか。
中村 インターネットであり、ICTの分野でしょうね。私が社員にいつも言っているのは「常識を変えているのはテクノロジーだ」ということです。テクノロジーの変化が常識を変えているし、仕事を変えている。ガス燈を点ける仕事も、馬車を操る仕事もいまはありません。今後、いわゆる唯物論と唯心論の対立のような葛藤も、少なからず起こるのではないかという気はします。いい意味でも悪い意味でも、テクノロジーが世の中を変えることになるでしょう。
ソフトハウスのテクノロジーでメロンの栽培方法を改善
奥田 こう変わるであろうという予想図は?中村 まだ勉強中ですが、2017年8月、「大和未来プロジェクト」というものをスタートしました。最年長は40歳前後で一番下が25歳という15人のメンバーでプロジェクトを作り、10年先、15年先の大和コンピューターはどうあるべきか、そのときどんな世の中になっているのか、そこからバックキャストして、いま何をしたらいいのかを考えましょう、というものです。月1回のペースで行い、1年経過したところで四つの案件が提案されました。
もちろん、トップがそこのところを考えなければいけないのですが、社長一人が突っ走るだけでは話にならないので、コンサルタントも入れて、こうしたプロジェクトを始めたわけです。
奥田 なるほど。その提案は、どんな内容のものなのですか。
中村 農業系の話もありましたし、それ以外の新分野の話も出てきました。ただ、もっと突拍子のないものが出てくるかと思ったらそうでもなくて、先代の「シンプル・イズ・ベスト」ではありませんが、人間に一番大事なのは何なのかという考えに沿ったビジネスプランが提案されています。
奥田 落ち着いた考え方をする方が多い会社なんですね。
中村 それがいいところでもあり、悪いところでもあるのでしょうね。
奥田 今後、二代目としては、どんな会社にしていこうと思っておられますか。
中村 そこが一番の課題で難しい部分ですが、一つは、そこにいて楽しいと思うものがないとダメだと思います。うちの社員は、よく「真面目だね」とおほめいただくのですが、真面目なだけで面白くなかったら、それはいかがなものかと。
これだけ変化が激しい時代ですから、楽しいというよりは、そこでワクワクできる会社にすることが必要だと思います。むしろ、そういう会社にできれば、別にコンピューターにこだわることもないような気がするんです。
奥田 なるほど。その感覚はよく分かりますね。
中村 社会の変化、事業環境の変化が、否応なく会社を変えるのではないかと思っています。例えば、いま静岡県袋井市で、ICTによる農業ビジネス「i農業」で養液栽培によるメロンを作っています。センサーを活用した農場管理システムやRFIDによるトレーサビリティーなど、もちろんコンピューターも関わってきますが、それだけにとどまらず、人間にとって命の源となる食べ物の収穫にソフトハウスが関わる時代になったということですね。いま問題となっている生産者の高齢化や後継者不足の解消にも役立つことができると考えています。
奥田 これからは、より幅広い分野を研究しなければなりませんね。
中村 いろいろ勉強させていただいています。知らなかったこと、気づかなかったことがいっぱいあるので、これからはもっと面白くなるなと感じています。
18年10月には、スイスのジュネーブで開かれた国連のITU(国際電気通信連合)の会議でこのメロン栽培の取り組みについてお話ししてきました。また、11月には中国の南京でFAO(国連食糧農業機関)とITUの共催で行われる会議でもお話しさせていただきました。
奥田 それは、たしかにワクワクする事業ですね。多方面での今後のご活躍、ますます期待しています。
こぼれ話
いつの頃からか、中村さんのことを「憲ちゃん」と呼ぶようになった。お父さんとの付き合いのほうが古くて、「息子と会ってほしい」ということで面談した。20年ほど前だった。年の頃は30代後半ではないか。当時は上背のある立派な体格は似てるなぁと思った。今回の対談では久しぶりに会ったせいか「似て来たなぁ」と感じた。インタビューを終えて紙面制作の過程で見たゲラの写真には「わ~、お父さんみたい」と懐かしさがこみ上げてきた。どうしてもお父さんのことが先に頭に浮かんでくる。物静かな方で、会話する時はいつも目尻をくしゃくしゃにしてニコニコ顔で丁寧に言葉を選びながらの話ぶりだった。マッタリしたテンポではなかったが、スピリチャルな話題になると、さらにゆっくり会話が進んだと記憶する。
大阪のホテルでお父さんのお別れ会があった。その時に感じたことがある。「憲ちゃんはお父さんのことが好きだったんだろうな」。なぜこんなに父親を大切にできるのだろうか、とも思った。自社ビルのコンセプトは創業者であるお父さんのものだ。当時採用した最新の機器のいくつかは時代の進化から取り残され始めている。いや、待てよ。床下に敷いた備長炭は今様ではないか。「父は常にシンプル イズ ベスト。物事はシンプルに考えなさいと語っていました」。生きるのに必要なものは何か。「空気ですよね」「食ですよね」。少し前から新事業としてメロン栽培を手掛けている。農業なのだ。外見、だけでなく内面もお父さんとダブって見える。
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
Profile
中村憲司
(なかむら けんじ)
1958年12月、大阪市天王寺区生まれ。81年3月、慶應義塾大学経済学部卒業。84年3月、同大大学院経営管理研究科修士課程修了。同年4月、日本アイ・ビー・エム入社。87年1月、大和コンピューター入社。2002年5月、代表取締役社長に就任。