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祇園で学んだ心得はビジネスの世界にも通じます――第221回(上)

千人回峰(対談連載)

2018/11/08 00:00

岩崎究香

岩崎究香

日本文化芸術国際振興協議会 代表理事

構成・文/浅井美江
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2018年11月5日付 vol.1750掲載

 岩崎さんとは同い年生まれであることを取材前に知った。生まれも育ちも置かれた場所もまったく異なるのだが、同期というのは不思議なもので初対面にも関わらずどこか通じる空気感のようなものがある。4歳で京都・祇園に入った岩崎さんは、花柳界の最高峰ともされる場で、並々ならぬ努力を重ねてトップを走り続けてこられた。はんなりした京言葉で繰り広げられる絶妙の会話から、不器用なまでにまっすぐな生き方がみえた。(本紙主幹・奥田喜久男)

2018.6.20/京都南禅寺「菊水」にて

女主人に見初められ4歳で入った祇園の世界

奥田 思い入れのある一品に、懐中時計をお持ちくださいました。

岩崎 舞妓さんになった日のことを「店出し」と言いますにゃけど、いわゆるお披露目ですね。その時にお養母さんがくれはったんです。

奥田 時計というのは何か意味があるんですか。

岩崎 私らはお花代(宴席の代金)を時間でいただきますので、時間はとても大事なんです。一晩にいくつもお座敷を回らんなりまへんけど、全部自分で管理をせなあきまへんしねぇ…。

奥田 だから、懐中時計なんですね。

岩崎 舞妓さんの衣装をつけるので、袖口が傷みまっさかい、腕にはできしまへん。

奥田 店出しはおいくつの時ですか。

岩崎 15歳でした。昭和40年の3月26日。満16歳になる年から出られます。私はお誕生日の前でしたから、この時はまだ15歳。義務教育を終えたら出ていいということですね。

奥田 岩崎さんと僕は同じ年の生まれですが、祇園に入られたのは何歳の時ですか。

岩崎 4歳の時分です。祇園で置屋(舞妓や芸妓を抱え、お座敷に応じて差配する家)を営む岩崎の女主人に見初められて、10歳で養女になりました。

奥田 井上流という日本舞踊の名取りでもいらっしゃる。

岩崎 井上流というのは祇園甲部だけの舞で、お留流です。祇園では井上流以外、他の流派の舞踊は許されませんし、祇園以外で井上流を教えてはいけない特別の流派です。私は4歳か5歳で歩くお稽古から教えていただいて、数え年6歳の6月6日から舞のお稽古を始めました。

奥田 歩く稽古というのは、すり足で歩く能の歩き方ですよね。

岩崎 そうどす。舞を習う前に歩くことからお稽古が始まりました。

奥田 井上流は「都をどり」で有名ですよね。

岩崎 はい。祇園甲部唯一の流派ですから。明治5年の京都博覧会が初演になります。

奥田 前から疑問に思っていたのですが、甲部というのは何なのでしょう。

岩崎 「花見通り」、厳密に言いますと、四条花見小路を境に、北西側の四条大和大路までと花見小路四条下がる建仁寺の北門までが甲部、東側の二丁ほど東大路に出るまでの狭い場所が乙部と言いますけれど、違う花柳界です。昔は丙部もありました。祇園の場所も時代によってちょっとずつ変わってきていて、私が養女になった岩崎の家も何度も引っ越しをしています。

奥田 区画整理のためですか。

岩崎 はい。昔は四条から北側に古いお茶屋さんがありました。南のほうは建仁寺さんの牡丹園があったんですけど、明治の廃仏毀釈でそれがなくなった。その後、南側に歌舞練場やお茶屋さんができて、北側のお店はだんだんのうなってしまいました。

奥田 それはもったいない。戦争中はどうだったんですか。

岩崎 祇園甲部も昭和18年には閉めたそうです。舞妓さんや芸妓さんは、鉢巻き締めて並んで軍需工場に行ってたそうです。私のお母ちゃんも姉も日本電池の工場にお手伝いに行ってたて言うたはりました。終戦後は、歌舞練場に併設されている八坂倶楽部はプルニエと言うてダンスホールになって、進駐軍の将校さんらで賑わってたみたいです。

奥田 僕たちの年代は戦後の匂いみたいなものを知ってますよね。

岩崎 そうどす、知ってます。姉たちは進駐軍がジープで祇園町を行き交いして、お菓子をばらまかはるのを見たて言うてました。

奥田 祇園にもいろいろな歴史が刻まれているんですね。いろいろと言えば、お客さんもいろいろおいでになったでしょう。

岩崎 そうですね。シャープの早川徳次さん、ホンダの本田宗一郎さん、サントリーの佐治敬三さん、俳優さんやと勝新太郎さん。

奥田 松下幸之助さんもいらしてたんでしたか。

岩崎 松下さんは先斗町さんがご贔屓やったので、ちょっと河岸が違いますね。
南禅寺「菊水」は、明治中期、元呉服商の別荘として建設された。
レストランから見える名庭師作庭の庭園は見事な四季を演出する

日本人の矜持をかけたニューヨークでの裁判

奥田 15歳で舞妓さんになって、21歳で芸妓さんになられました。舞妓さんと芸妓さんは、どう違うんですか。

岩崎 誤解があってはいけませんのでちょっと簡単に説明しますと、舞妓さんは立ち方と言って主に舞を舞いますが、芸妓さんの見習ではありません。小さい頃から舞妓さんになるための修業をしています。年頃になると、置屋さんに仕込みさんに入って、店出し前にお茶屋さんで実地の見習さんをさしてもらいます。15歳で店出しをした日から、芸妓さんと同じ一本で(お花代は同じ)芸妓さんと舞妓さんの立場は、年齢が違うのと格好が違うだけです。そうして20歳ぐらいで襟替えをして芸妓さんになるのどす。舞妓さんや芸妓さんは芸事によって身を立てる自立した職業婦人です。

奥田 芸妓さん時代はすごく活躍されましたよね。テレビやコマーシャルにも出演されて。書かれた本をもとに、テレビドラマも制作されました。でも29歳で引退を決意して、置屋を廃業された。よく決断されましたね。

岩崎 人生最大の決断でしたけど、良かったと思てます。私ね、実は舞妓に出た15歳の時に、30歳までに辞めると決めてたんです。

奥田 なぜですか。

岩崎 4歳で置屋を継ぐということを決められて、祇園に来ましたでしょ。人に命令されるままに、いたずらもしないで賢くして売り上げを上げることが一番で。周りの人の期待に精一杯応えてきました。お稽古して舞台の切符も売ってお座敷に出て。寝る暇もありませんでしたけど、30歳までと決めてたさかいに頑張れました。

奥田 とはいえ、続けることもできましたよね。

岩崎 続けてほしいと言われましたけど、いろんなことが変わってきました。例えば、舞妓さんになりたいといってやって来る人たちも、トイレの掃除からというと「そんなことまでさせられた」って。

奥田 舞妓さんのやることと違うというわけですか。

岩崎 トイレの掃除をするのは、そこがきれいやないと神さんに降りて来てもらえへんさかいどす。掃除は段取りを理解するのにもいいのに、そこをわからぁらしまへんやろぉ。

奥田 時代ですかね。

岩崎 それもあるにゃと思います。ただ、習う人たちだけでなく祇園を運営していく側にもいろいろ思うことがありまして。

奥田 岩崎さん、窮屈な生き方してませんか。

岩崎 え!? そうですか。でも、なんか筋の通らんことはイヤなんです。

奥田 筋といえば、ニューヨークで裁判も起こされましたね。

岩崎 取材にいらした米国の作家さんが、私との約束を反故にしゃはったさかい、名誉毀損と契約違反で訴訟を起こしました。

奥田 していた約束が違うと。

岩崎 そうどす。そもそもご贔屓さんから頼まれて、実名を出さないということが条件で協力さしてもろたんです。実は取材の際、条件を紙に書きましょうかと作家さんから言わはったんですけど、あなたを信用しているからそんなものはいらないと。だって人は信じたいでしょ。でも約束は破られた。そこは私の甘かったところです。

奥田 本気で裁判されたんですね。

岩崎 本気でした。約束云々だけでなく、内容も誤解を招くものでした。このまま黙っていたら日本人が馬鹿みたいに思われる。これではいかん、と。人に恥をかかすということが、どういうことかを知ってもらいたかったんどす。

奥田 結果は和解が成立しました。

岩崎 裁判官から言われたんは「普通の和解と思わないでください。米国の法律によって相手の時効が成立していたので、これは勝訴です」と映画監督のスピルバーグさん(注:映画『さゆり』の監督はロブ・マーシャル氏)のところの映画も止めてましたさかい。

奥田 ニューヨークの裁判は2001年でした。

岩崎 September11がありましたでしょ。あの5日後でした。私が行ったニューヨーク地方裁判所は現場の近くやったんです。日本の方も大勢亡くならはって……。お数珠を持って行きました。
(つづく)
 

舞妓時代から半世紀を共に過ごした懐中時計

 岩崎さんの現役時代、お座敷の時間を管理していた手巻きの懐中時計。先端の飾りは、かつて刀の鍔をつくっていた職人が手掛けたという。現役時代の名入りハンカチは、芸妓の必需品。懐紙と共に常に胸元に入れていたそうだ。
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
 
<1000分の第221回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。

Profile

岩崎究香

(いわさき みねこ)
 1949年生まれ。京都市出身。置屋を営む女将に見初められ、将来の跡取りとして4歳で養女となり、15歳で祇園甲部の舞妓としてデビュー。21歳で芸妓となり、6年連続売上ナンバーワンを達成、お座敷以外にも広告やCMなどで活躍する。29歳で現役を引退後、日本画家の佐藤甚一郎氏と結婚。日本画や油絵の修復を学び生業とする傍ら、2001年に自伝『芸妓峰子の花いくさ』を出版。同書は日本図書館協会選定図書となる。02年には米国で『Geisha,a Life』を発売しベストセラーに。09年「日本文化芸術国際振興協議会」を立ち上げ、日本の伝統文化を正しく継承するために人材の育成や情報の発信に勤しんでいる。