創り出す時計は世界に一つ。同じものは絶対につくりません――第181回(上)
ウォッチエングレーバー 金川恵治
構成・文/浅井美江
撮影/津島隆雄
週刊BCN 2017年3月27日号 vol.1671掲載
個人差云々は少し横に置くとして、男性が好きとされるものの一つに腕時計がある。機能に惹かれて、ステータスとして、ファッションとして、理由はさまざまと思うが、腕時計にこだわりをもつ人は多い。金川さんは、そんな腕時計のケースやムーブメントに、繊細かつ絶妙な彫りを施すエングレーバーである。耳慣れないこの職業を目の当たりにすべく、さまざまなご縁が紡がれてオープンしたという、金川さんの工房兼ショップを訪ねた。(本紙主幹・奥田喜久男)
2016.11.29/K CRAFTWORK JAPANにて
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
収集から始まり、修理に目覚めた時計との縁
奥田 こちらの工房、オープンはいつですか。金川 2016年の7月です。
奥田 工房がある場所自体がユニークですね。秋葉原と御徒町の間の鉄道の高架下に、木工や革製品の工房などが集まっているんですね。名称にあるARTISANはフランス語で「職人」の意味だそうですが。
金川 もともとこの辺りは、伝統工芸の職人が多く住まう街だったようです。
奥田 金川さんのご職業であるエングレーバーも職人ということになるのでしょうか。
金川 エングレーバーは、時計のケースや裏蓋、ムーブメントなどに彫金で装飾を施す技術を有した職人です。彫金師と呼ばれることもあります。
奥田 彫りがご専門ということですか。
金川 それだけでもないんです。彫り全般を手がけますが、彫り以外にも、七宝や伝統工芸の技術を用いて色をつけることもあります。前職でイラストの仕事をしていたので、文字盤に絵も描くこともあります。
奥田 これまでに身についた多様な技術を駆使して、時計に装飾を施す。
金川 装飾だけでなく、時計の分解や組み立ても手がけます。さまざまな技術を用いて、時計をつくるためにありとあらゆる表現をしています。
奥田 マルチですね。金川さんと時計との出会いを教えていただけますか。
金川 もともと時計が好きで、収集していたんです。時計そのものが好きだったので、ブランドとかは関係なく、ちょっと変わったものとか機能がおもしろいものを集めていました。
奥田 全部機械式ですか。
金川 デジタルでも面白い時計が多くありますが、私は。機械式時計のデザイン自体と、歯車で動くというのが好きなんです。ムーブメントのベースは同じでも、そこにいろいろ機能をつけて、ぜんまいで機械全体が動くことに興味がありますね。
奥田 形状美と機能美、両方が好きということですね。集められたのは何個くらいですか。
金川 当時は20~30個ですか。メーカーにこだわらなければ安くても機能や細工の優れた時計が多くあったので、手に入れてどんな構造になっているか、分解して楽しんでいました。
奥田 その頃の時計はあくまで趣味ですよね。ご本業は何だったのですか。
金川 美術学校を卒業後、ゲーム系の会社に入社してイラストレーターをしていました。その後、独立しフリーランスになりました。
奥田 そのころから本業のかたわら、時計の勉強を始められたんですね。
金川 自分で時計を直したくなって、時計の修理ですごく面倒見のいい方がいるから連絡してみたらとアドバイスをいただき、電話をすると、最初はことわられたんですが、粘っているうちに週末に勉強会があるから、遊びにいらっしゃいとなって……。
奥田 トントン拍子ですね。
金川 時計の専門学校も考えましたが、年齢が高すぎて入れてもらえなかったんです(笑)。
奥田 おいくつだったんですか。
金川 40歳を過ぎてましたね。
奥田 年齢制限があるんですか。
金川 入学することに対してより、卒業してから就職が難しいということで……。専門学校は就職率がすごく大事ですから。しかも、当時の私はイラストの仕事をしていて、「なんで今さら時計の仕事に」とずいぶん言われました。
時計業界のトップに見初められ、46歳でエングレーバーの道へ
奥田 勉強会は役に立ちましたか。金川 プロの方が仕事とは別に自分の時計を直していたり、勉強されていたり。修理の道具まで貸してくださって、本当にありがたかったです。今も行っています。
奥田 お店があるんですか。
金川 「クワナ時計サービス」といって、実はこの近くなんです。
奥田 それもまたご縁ですねえ。
金川 勉強会には、修理する側だけでなく、時計メーカーの方もたくさん来られているので、時計業界とのつながりもできました。ちょうどその頃、友達から100個を超える時計をいただいたんです。
奥田 それはすごい数ですね。
金川 時計屋さんをしておられたお父様が亡くなられたんです。私も若い頃から存じ上げていて、時計のことを教えてもらっていました。
奥田 お友達は後を継がれなかったんですか。
金川 友達もイラストレーターだったので、大量の時計があっても、自分では持て余してしまって。それなら時計の勉強に役立ててくれということでいただきました。
奥田 その方のお父様の形見が、金川さんの勉強のベースになったわけですね。
金川 その時計や勉強会もそうなんですが、私が何かをやろうとすると必ず誰かが助けてくれるということが、それまでにもありましてありがたいと思っています。いただいた時計をベースに修理やオーバーホールを勉強しながら、違う時計につくり変えたりし始めたんです。
奥田 ムーブメントは既存のもので、それをオリジナルにつくり変えると……。
金川 文字盤をつくったり、絵を描いたり。ちょっと歯車を足して機能を加えたり。毎月1本ずつつくって、2年くらい続けてました。
奥田 ということは24本つくられた。現在のお仕事の原型になるわけですね。
金川 そのうちに、時代がコンピュータになってきて、イラストの仕事も手で描かなくてもよくなってきたんです。でも私はそれが絶対にいやでした。
奥田 コンピュータで描くのは、そんなにお嫌いでしたか。
金川 もともと手でものをつくるのが好きだったから、絵を描き始めたのです。手で描けないのなら、もうやめようと思いました。
奥田 いろいろなことが金川さんを時計の仕事 に向かわせたのですね。
金川 そんな時、ある勉強会がご縁で時計の大手代理店のトップの方と知り合ったんです。私がつくったスケルトンの時計に興味をもってくださり、エングレーバーとして会社に来ないかと誘われたのです。
奥田 それはまたとないチャンスですね。
金川 はい、初めは修理で入社を考えていましたが、世界でも有名な時計の日本総代理店だったため、すでにレベルの高い技術者が多くいらっしゃり、修理でなく、彫りの技術を生かしに来ないか?と迎えてくださいました。
奥田 金川さん、おいくつの時ですか。
金川 2006年ですから、46歳でした。(つづく)
■創り出す時計は世界に一つ。同じものは絶対につくりません――第181回(下)
ウォッチエングレーバー 金川恵治
写真左から、ムーブメント本体、スケルトン加工を施したもの、完成品。ムーブメントに糸のことやすりで加工をし、エングレービングを施し、面取加工などの仕上げを行っていく。時計の強度を保ちつつ、どこまで加工ができるか、調整しながらの作業が続く。
Profile
金川 恵治
(かながわ けいじ)
1960年長崎県生まれ。東洋美術学校を卒業後、国内ゲームメーカーに勤務。イラストレーターとして活躍。85年独立し、世界的なエンタテインメント会社の仕事に携わるかたわら、趣味の機械式時計の世界に没頭、自ら創作を始める。2006年高級時計の日本総代理店にエングレーバーとして入社。15年独立。翌年7月、JR秋葉原、御徒町間の高架下にある“ものづくりの街”「2k540 AKI-OKA ARTISAN」に、「MINASE」ブランドをもつ協和精工株式会社とのコラボレーションによる工房兼ショップ「K CRAFTWORK JAPAN」をオープン。工房ではエングレービングの実演を披露している。