The Times They Are A-Changin'2017年 金融ITは守りから攻めへ――第176回(上)
富永 新
セールスフォース・ドットコム セールスフォース・インダストリー本部 金融プロジェクト担当アドバイザー
構成・文/浅井美江
撮影/長谷川博一
週刊BCN 2017年1月16日号 vol.1661掲載
事件は人を選んで起きるという説があるらしい。富永新さんとは2001年、金融ITの調査団としてともにNYを訪れた。まさにその時、9.11に遭遇した。初秋の高い碧空のした、崩壊したWTCから龍のようにうねりながら押し寄せた瓦礫の烈風と、雪のように降ってきた真っ白なコピー用紙は、いまだ眼の底に残っている。以来15年、富永さんとは長い行き来が続いている。レガシーシステムからブロックチェーンまで携わること約40年の富永さんに、金融ITの未来をうかがった。(本紙主幹・奥田喜久男)
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
映画館で泣いたこともあった日銀時代
奥田 富永さんとお会いしたのは、忘れもしない2001年のNY911でしたね。富永 調査団として、金融ITの未来を見に行ったわけですが、テロ攻撃を目の当たりにしたのは人生最大の衝撃でした。
奥田 あの頃は日本銀行にいらっしゃいましたね。日銀では何をしておられたんですか。
富永 大きく三つあるんですが、すべて金融ITです。私は社会に出てからこれまで、約40年間、ほぼ金融IT一筋ですから。
奥田 一筋の仕事の一つめは。
富永 日銀ネットシステムの構築です。入行してから2年後、当時の電算情報局に配属になって、上司から言われたのが「電算とかコンピュータとか、場末なところに異動になってすまない」でしたね(笑)。8年間かかわって、企画から開発、運用、新しく建てたデータセンターの設計もやりました。
奥田 二つめは。
富永 1994年に情報サービス局の広報担当になって、驚いたのは短観(短期経済観測調査)を紙で配っていたこと。四半期ごとに短観の発表があるんですが、当時は、日銀旧館の前に朝からエコノミストや銀行の関係者など600人くらいがぐるりと並ぶのです。ちょうどインターネットが台頭しつつある頃で、「これを使えばいいよね」と、日銀ホームページを開設して、発表時刻に合わせて朝8:50に掲載するようにしました。
奥田 リアルタイムでの情報発信は日銀が初めてですか。
富永 大蔵省とか内閣府など官公庁でもそうだし、企業全般でも最先端でした。既存のメディアからはいろいろ抵抗やら対決もありましたが。結局、日経インターネットアワードの大賞を受賞しました。
奥田 何だか順風満帆ですね。
富永 いや、その後が大変だったんです。考査局に配属されたんですが、ITの仕事ばかりやっていたから信用リスク(与信査定)考査が苦手で、銀行の支店長と話しても会話が続かないんです。本当にへこみました。ちょうど、タイタニックが上映されている時で、映画の最後にディカプリオが海の底に沈んでいくじゃないですか。某地方であれを観ながら思わず号泣してしまって……。
奥田 映画館のなかで泣いたんですか。感じやすいんですねぇ。
富永 でも、このままじゃいけないと一念発起して編み出したのが、「システムターゲット考査」。折しも2002年4月にみずほ銀行が統合するにあたって大規模な障害が起こり、私も事後処理に3か月くらい寝食を忘れて奔走させられました。
奥田 あれは大きかったですね。一言でいうと何が原因ですか。
富永 語り始めると1冊の本が書けるんですが。なんとかまとめると、システム構築にかかる“プロジェクト・マネジメントの破綻”でしょうか。三つの銀行を二つにするというプロジェクト自体が困難だったうえに、経営統合日とシステム統合日を同じ日にしたことで、システムのバグによる影響に加えて、事務処理も大混乱してしまったという。
奥田 それは事前に防げたことのように思えますが。
富永 三つを二つにするのは、高度な経営ビジョンの話ですからね。その後、監督当局が過剰反応して、「システム障害を無くす」ことが目標となりますが、リスクゼロの「絶対安全なシステム」はあり得ないし……とか、金融ITの課題と方向性を私なりに考えているうちに、2006年頃ですか、これからはクラウドコンピューティングの時代がくる。豊かな未来はクラウドにある、と気づきました。
奥田 2006年だったら早い方ですね。
富永 自分で言うのもなんですが、着眼点はいいと言われるんです(笑)
世界で最も慎重な公的機関から世界で最も革新的な企業へ
奥田 早々とクラウドの将来性に気づいてしまわれた。その後どうされたのですか。富永 クラウドのことをもっと知りたくなって、あれこれ調べていたら、宇陀栄次さん(元セールスフォース・ドットコム社長)を知り、お会いして意気投合。すぐに日銀でクラウドの利用を提案してもらったんですが、「大事なデータを外に出すなんてとんでもない」「海外にデータがあるなんて困る」と。結局、私以外全員が「No」でした。
奥田 2006年ではちょっと早かったかもしれませんね。
富永 その後、フィールドを広げて政府の情報セキュリティ系の委員会でも活動していたのですが、「見る前に跳べ」とか言っていたもんだから、だんだん日銀カラーと合わなくなって……、2013年にセールスフォース・ドットコムに入社しました。真逆のカルチャーに180度の転身です。
奥田 こちらにこられた後は、クラウドの利用を啓発された。
富永 1年めはクラウドアレルギーの払拭を説いて回り、2年めは金融情報システムセンター(FISC)が出した新安全対策基準にも適合しているから、ますます大丈夫ですといって歩きました。が、金融機関は総じて慎重ですね。
奥田 それは現在もですか。
富永 いまでは、FinTechを始めているメガバンクなどの部隊は完全に頭が切り替わっていますし、監督官庁の方針も大きく転換しているんですが、金融機関の隅々にまで浸透するにはまだハードルもあります。体質的にもスピード的にも、カルチャー自体が合わないんです。
奥田 カルチャーはどんな風に違うんでしょう。
富永 要するに、挑戦すれば失敗してもほめられるカルチャーと、1度の失敗が許されないカルチャー。マーク・ベニオフのオラクル時代と半沢直樹の世界ですね。だけど、金融機関は、急速にカルチャーを変えていかないと危ないと思います。
奥田 危ないとはどういう意味ですか。
富永 FinTechは、欧米ではDisrupter(破壊者)とされています。しかし、日本ではまだそうはなっていない。理由は、いろんな見方があると思いますが、日本の金融インフラやサービスは、中国やアジア、アフリカ、さらには米国と比べても水準が高く、顧客ニーズとの差分が小さい。だから、実は水かさが増しているけれども、堰が高いのでそれがわからない。ましてや溢れ出そうなんてことは目にみえません。だけれど、水は必ず溢れます。
奥田 津波はくるということですか。
富永 そのことをどうやって伝えるか、一生懸命“比喩”を考えたんです。とにかく水かさは増しているわけです。いずれは堰を超えて流れ込んでくる。だから、おぼれないように今から泳ぎ始めた方がいい。でないとおぼれ死んじゃうよ、というのを考えたんですが。これがなんとボブ・ディランの「The Times They Are A-Changin’」(時代は変わる)の歌詞とまったく同じでして……。
奥田 ボブ・ディランですか。そういえば、富永さんは2006年に“ボブ・ディランがノーベル賞を取るべきだ”とネット上に名文を書かれていましたね。10年も前に。早かったですね。
富永 だから、着眼点はいいんです(笑)
(つづく)
Profile
富永 新
(とみなが あらた)
1958年、愛媛県西条市生まれ。80年日本銀行入行。30余年の銀行生活の前半は「日銀ネット」など決済システムの企画・開発に、後半は情報セキュリティやシステム統合・共同化プロジェクトなどの「システムターゲット考査」に従事。2013年、セールスフォース・ドットコムで、金融プロジェクト担当アドバイザーに就任。政府の情報セキュリティ基本計画検討委員などの公職を歴任。著書に『わが国金融機関への期待~ITリスク管理と事業継承の未来を拓く』がある。