“還暦ベンチャー”でもやり方次第で十分成功できる――第164回(下)
成田 明彦
セキュアブレイン 取締役会長
構成・文/小林茂樹
撮影/長谷川博一
週刊BCN 2016年07月18日号 vol.1637掲載
成田さんは59歳でシマンテックを辞めたが、当初、起業するつもりはなく、もうリタイアしてもいい頃合いだと思っていたそうだ。ところが、そこに起業の誘い。ではなぜその話に乗ったのか、以前聞いたことがある。セキュリティソフトは国の命運を左右するという思いをずっと抱いていたからだ。「この分野で日本独自の技術をもたなければ、いざというとき日本が丸裸にされてしまうかもしれない」。外資系企業をよく知る成田さんだからこその決断だったのだ。(本紙主幹・奥田喜久男)
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
「マウスって何?」から、アップルの営業責任者に
奥田 成田さんの経歴を拝見していますと、外資系企業からのヘッドハントが、一つの軸になっているようにみえます。成田 実は、日本ユニバックの営業は日本的な体育会系気質で、転職など考える余地はありませんでした。当初は、定年までユニバックに勤め続けるものと思っていたんです。
奥田 それは意外ですね。
成田 ところが、英語もできないのに米国本社に転勤し、78年の暮れから82年までの4年間ペンシルベニアで過ごしたのですが、向こうの人間から、「会社に対するロイヤリティと仕事に対するロイヤリティは別だ」という話をよく聞かされました。それが、転職してもいいと思うようになったきっかけですね。
奥田 その4年間で、ロイヤリティの違いを知ったことと英会話のほかに何か得たものはありましたか。
成田 米国ではコンピュータ利用が非常に進んでいましたから、日本においても今後その傾向が進むと実感しました。アップルが立ち上がった頃の話です。
奥田 米国にいるとき、アップルのことはご存じでしたか。
成田 私がコンピュータ関係の仕事をしているので、隣に住んでいたお医者さんが「マウスを使ったコンピュータが出てきたけれど、どう思う?」とたずねてきたのです。それまではアップルのことを知らなくて「マウス?」と(笑)。私の頭のなかにはユニバックの大型機しかありませんから、コメントできなかったですね。79年頃のことですが、個人で買えるコンピュータの時代が始まり、いよいよ技術革新が進んでいくのだと思いました。
奥田 そして、最初の転職が85年。
成田 アルゴグラフィックスには、日本ユニバックをスピンアウトした先輩に誘われて入りました。ワークステーションで動くCAD/CAMの会社で、私のビジネスに対するスタンスのダウンサイジングの始まりです。ただ、この会社は他社が開発した製品の販売店という位置づけで、ユニバック時代のように自社製品を売ることはできませんでした。そんなとき、アップルから日本全域の営業責任者として来てほしいという声がかかりました。自社製品を扱うチャンスであり、パソコンは今後絶対に伸びるという思いから、二度目の転職に踏み切ったのです。
奥田 アップルでは、存分に腕をふるえましたか。
成田 私がアップルに入ったときの年間売り上げは今のアップルでは考えられない程小さな数字でした。パソコンそのものは非常に使いやすいが高価で、ユーザーが限られていることがその大きな原因でした。なかなかマーケットシェアは伸びないのですが、やり方によってはもっと伸びるはず。エントリーレベルのパソコンを出すということになり、私はぜひ20万円を切るマックを出してもらいたいと主張しました。このときリリースされた一番ベーシックなスペックで19万8000円という製品が、マックユーザーの裾野を広げるきっかけになりました。私はアップルに5年間在籍しましたが、辞める年には年間売上が10倍ほどになりました。
奥田 5年間で、10倍近く伸ばされたんですね。
成田 一方で、アップルの限界も感じました。企業ユーザーに浸透しないからです。当時のマックは、何の前触れもなしに爆弾マークが出てきてフリーズするわけですよ。そうすると、せっかくつくったデータがパーになっちゃう。これが企業ユーザーに支持されなかった大きな要因です。それと同時に、ハードウェアのビジネスは自ずとどこかで限界が来ると感じたんです。
日本市場の厳しさがグローバルでの品質向上をもたらす
奥田 大型機からパソコンにダウンサイジングした後は、ハードからソフトへの転換ですね。ハードとソフトでは売り方は異なりますか。成田 基本的には同じでしょうが、ハードウェアの場合、売れ残ると不良在庫になりますが、ソフトウェアは処分してもたいした損害にならない。その辺はソフトのほうが精神的に楽ですね。両方に共通するのは品質。とくに日本のお客様は品質にセンシティブですから、いかにバグのない製品をリリースするかということが重要です。
私がシマンテックに入ってすぐに新製品を日本市場で販売するというので、試しにその製品を友達に使ってもらったら、すごいバグがあると知らされました。でも、米国本社はそのまま市場に出すといいます。これから日本法人を立ち上げるのにこんな製品を出してしまったらシマンテックのブランドに傷がつくといって、私はその製品を全部送り返してしまいました。だから、私がシマンテックに入って一番貢献したのは、シマンテックのソフトウェアの品質を向上させたことなんです。
奥田 でも、シマンテックも10年で辞められますね。
成田 米国の本社が「グローバルスタンダード」の名のもとに、日本特有の事情を汲み取らなくなったことが原因です。かなりケンカしましたが、もういいかと。
奥田 そして、セキュアブレインの起業ですね。
成田 私がシマンテックを辞めるといったら、当時米国本社に転籍していた技術者の山村元昭(現セキュアブレイン副社長)が、「いま欧米では、フィッシングが問題になりつつあり、私にはその対策ソフトのアイデアがあります。だから一緒に会社をつくりませんか」といってくれたのです。おもしろい! 還暦ベンチャーのチャレンジだなと。本当の独立ですから、当初は資金繰りに苦労して夜中にうなされたりもしましたが、これまで50年近くこの業界でいろいろな方と関係をもたせていただいたことが、このベンチャービジネスの一つの大きなバックボーンになったのかなと思います。おかげさまでセキュアブレインは、日本市場においてフィッシング対策の先駆者としてしかるべきポジションにつくことができ、金融業界では約180社のお客様をもつことができました。
奥田 経験と人間関係も財産ということですね。
成田 還暦ベンチャーとはいえ、やり方によっては十分成功できるというのが、創業10年で日立グループの傘下に入れる会社に成長したという結果への感想です。ですから、「ベンチャーというものは年齢に関係ありません」。確かに歳をとると肉体的に厳しい面はありますが、気力さえ続けばいつでも立ち上げられるものだと思います。
奥田 始めるのに遅すぎるということはないと。それを実証されたわけですね。
こぼれ話
“還暦ベンチャー”でも やり方次第で 十分成功できる──今回の見出しだ。成田さんとは20年近いおつき合いになる。起業されてからは食事をしながらの会話が多い。今日のお酒の入らないスッピンでの対話は照れ臭かった。質問をするのは私の役目だが、“今さら”そんな質問をするのかと、自問自答しながらの対談であった。成田さんも何時になくぎごちない話しぶりで、きっと大根役者の二人芝居の様子であったろう。今、思い出しても吹き出す。成田さんの人となりを記してみる。人を思いやる会話と身のこなし。弱点を見抜いても大騒ぎしないで粘り強く整える。いろいろなタイプの経営者がいる。自分の内側を攻めるタイプとその逆だ。さて、企業に余裕がない時にはどう変化するのか。成田さんは踏ん張りながら姿勢を崩さない人だとみている。
ある時、成田さんが「こちら側に座ってくれませんか」という。「なぜですか」「こちらの耳、聞こえないんですよ」。資金繰りの辛さに耐えているうちに、耳の機能が停止したのだ。「夢のなかで預金通帳の数字がゼロになっていくんですよ」。これは恐怖だと思う。昨年末には膵臓癌を早期に発見。手術で切り抜け対談ができるまでに復活した。友人として本当にうれしい。企業は自己資金で事業をやり繰りができるようになるまでに多くの経験をする。還暦ベンチャーに挑むにはやり方と覚悟がいる。古希の成田さんには骨休めをしていただきたい。
Profile
成田 明彦
(Akihiko Narita)
1945年5月、三重県生まれ。68年、慶應義塾大学商学部卒業、日本ユニバックに入社。85年、アルゴグラフィックス入社。89年、アップルジャパン入社、営業部長として販売網の充実強化に務める。94年、シマンテック入社、代表取締役社長として日本市場でのブランド確立とセキュリティ市場におけるトップメーカー躍進の原動力となる。2004年、セキュアブレイン設立、代表取締役社長兼CEOに就任。14年、同社は日立システムズの完全子会社となる。15年6月、取締役会長に就任。