経営で大切なのは「浮利を追わず」です――第154回(下)
木下 仁
システムコンサルタント 取締役社長
構成・文/浅井美江
撮影/岡島 朗
週刊BCN 2016年02月22日号 vol.1617掲載
木下さんにお話をうかがっていると、「発注者と受注者が垣根を越えて、関係者が一丸となって、目的を達成したい」という気持ちがひしひしと伝わってくる。30年前の会社設立時、理念先行型で尖っていた若者は、還暦を迎えて「人生はご縁なんですね」と柔らかく笑うようになった。生き残るものは変化に強い。インドにも足繋く通うという。「現地のSEに会うのが楽しみです」という木下さんのこれからが、一段と楽しみになった。(本紙主幹・奥田喜久男 構成・浅井美江 写真・動画・岡島 朗)
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
「信頼」なくしてビジネスはできない
奥田 前回はシスコン(システム コンサルタント)の創業者たちの信条をうかがったのですが、木下さんご自身の理念を教えていただけますか。木下 私が創業したアールワークスの経営理念と同じで、「信頼・技術・挑戦! お客様と共に未来を創る」です。
奥田 滔々と語られますね(笑)
木下 経営理念を変えたのは3回目なんですが、変わらないものは「信頼」です。これは非常に重要です。信頼なくしてビジネスはできません。さらに重要なのは、お客様とともに未来を創るということ。実は仏教用語を勝手に自分なりに解釈して使っている言葉があるんです。「同事者意識」というんです。
奥田 かみくだいていうとどういうことなんでしょうか。
木下 要は、何をするにしてもみんなで一緒になってやろうよと。当事者意識という言葉に近いんですけど、それよりもっと広い感じでしょうか。
奥田 もう少し詳しく教えていただけますか。
木下 例えば、お客様とシステム構築の仕事をするとき、発注受注の関係はもちろんあるんですが、それを取っ払って、一つのチームとして何かを達成する仲間なんだと思えたときって、うまくいくことが多いし、関わったみんながハッピーになれるんです。発注者であるお客様がそういう風に降りてきてくれるところとは、ぜひ一緒に仕事をしたいなと。
奥田 シスコンの経営理念にも通じるところがありますね。
木下 そうですね。直取引にこだわるのは、間に別の業者が入っていると、どうしても同事者になれないんです。提案がまともにできない。お客様と直接向き合って、ああかなこうかなといろいろなことを共有して、次のステップに進みたいんですね。システムは生き物だから、どんどん変えていかなきゃいけない。だから、直取引は絶対不可欠なんです。
奥田 すごく原点の質問ですが、木下さんがシステムに出会ったのはいつ頃ですか。
木下 東工大を卒業後、三菱総研に入ったときでしょうか。世界最先端のIBMの小型計算機があって、プログラムを開発する部隊に入ったことがシステムとの始まりです。
奥田 そこでは何を開発されていたんですか。
木下 科学技術計算とコンピュータグラフィックです。電力会社の電力系統の安定度解析をやってました。あの頃はよく停電があったと思うんですが、それが起きないようにコンピュータ上で全部シミュレーションできるようにするんです。
奥田 電力会社の送電の部分ですね。そういった解析のお仕事はおもしろかったですか?
木下 おもしろかったです。でも怖くもありました。データが命ですから。一桁違うと全然結果が違ってしまう。それが山のようにあるわけですから、すごく気を使いました。
奥田 その後、三菱総研を辞められてどうされたんですか。
木下 辞めてすぐに半年ほど、語学留学でボストンに行きました。それで帰国して、アステックの前に、三菱総研出の男2人、女2人で「シニック」という会社をつくったんです。UNIXのワークステーションを使って、グラフィックソフトとか出してました。その後、85年のアステックの設立に至るわけです。
意識を変えた社員とのone on one meeting
奥田 アステックの創業から30年、アールワークスのM&Aは悩まれましたか。木下 とくに悩みませんでした。まあ流れというかご縁というか……。シスコンの時もそうだったんですが、そんな風に思えるようになったのは、10年くらい前です。社員との距離ができてしまったと自覚した時があって、その時に始めたone on one meetingがけっこう大きかったかもしれません。
奥田 大きいというのはどういう意味ですか。
木下 社員と一回話したくらいじゃダメなんですね。相手も警戒してくるわけですから。だけれど、何度も繰り返すうちに、意外にいろいろなことを話してくれるようになるんです。プライベートのこととかも。そうすると、あたりまえのことなんですが、一人ひとりにいろいろあるんだなということがわかるわけです。このことは、自分の行動の指針に非常にプラスに働きました。
奥田 当時、インタビューの対象になる人はどれくらいいらしたんですか。
木下 100人前後だったと思います。こちらも本気ですから、けっこう疲れます。だから元気な時じゃないとできません。経営理念とか掲げてるけど、全然伝わってなくてがっくりしたりしました。
奥田 経営者としての挫折感ですかね。
木下 でも、続けているうちに話すのが楽しくなってきちゃって。インタビューの記録は全部取ってたんですけど、なかには同一人物とは思えないほど、成長する人もいたり。その逆もあったりね。そういうことをたくさん繰り返していると、独断先行の大きなディシジョンミスはしなくなったように思います。
奥田 経営も同事者意識なんですね。経営者“木下”としてもすごく変化、というか進化しているんですね。
木下 そんな風にいわれると、かっこよすぎますよね(笑)
奥田 30年を振り返った総括は、100点満点で何点ですか。
木下 50点。もともと楽観的なので、悔いはないんですが、もうちょっとうまくやれたかなということはいくらでもありますね。
奥田 大きな意味では、“生き方”として尖がってアールワークスでやっておられたことに、一つ幕を引かれたのではないかと思いますが。
木下 まあ、ほっとした部分も大きいですし、さみしい部分も大きいです。たぶんこれからジワジワくるのかもしれません。だからシスコンの話がなかったら、けっこうガクッときちゃったかもしれない。拾っていただいて本当にありがたいです。
奥田 この先10年、シスコンはちょっと別にして、どんなことを描いていますか。
木下 個人的には、BtoCの会社を応援するBtoBのビジネス、BBCを一度やりたいなと思いますね。
奥田 具体的にはどんなビジネスですか。
木下 いや、まだそこまでいってないんですが、強いていえば共感度の高いビジネス。食品だったら身体にいいものしか提供しないとか。かっこいいことをいえば、共感度でつながるビジネスでしょうか。
奥田 最後に、グローバル化についてはどんな意識をもっていらっしゃいますか。
木下 アステックの時代から海外にも展開しようと思ってました。今や運用はどこでもできる時代です。だからビジネス展開は海外展開を含めて考える。もしくは、海外と一緒に組んで出て行くことが必須だと思いますね。
奥田 後じんのためにも、ぜひ道をつけてほしいです。
こぼれ話
以前、趣味をお聞きしたことがある。「乗馬をやってました」と過去形だったので学生時代かと思ったら、社会人になってからという。「落馬してケガをしたものですからやめました」。ヨセミテ国立公園で馬に乗った時、馬の背中って予想を超えて高く“怖いなー“との印象があった。さぞ痛かったんだろうな。対談を無事に終えたところで、「来週、インドに出かけてきます」と木下さん。「そうですか、行ってらっしゃい」とお見送りした。少し経って原稿のことで、編集者が木下さんとメールのやり取りをした。「木下さん、インドで網膜剥離になったんですって」「大丈夫なのかなぁ」。その後お会いしてみるとお元気なので安心した。
聞けばインドでのケガではなく、ご自宅の柱にぶつけられたそうだ。自覚症状がなくてインドに出かけた折に、「オヤッ」ということになって、帰国後に手術。「3か月はゴルフをしない。お酒も飲まない」とか。とにかく思わぬケガをする方だ。
慎重なタイプと勝手に想像していたが、どうもそうではないようだ。対談記事を読み返しているうちに気がついたことがある。用意周到というよりは、歩きながら次に見えてきた風景がお気に入りならばそちらに行くタイプとお見受けした。読者の皆さんはどう思われますか。
Profile
木下 仁
(きのした じん) 1955年生まれ。東京工業大学理学部応用物理学科卒業。三菱総合研究所を経て、85年、アステック設立。代表取締役社長に就任。97年事業子会社インターネット・ソリューションズ設立。2000年組織を再編し、アステックを持ち株会社に移行し、事業子会社三社を立ち上げる。同年、アールワークス設立。12年M&Aにより、アイテック阪急阪神が親会社となる。15年アールワークス社長を退任。同年10月、システムコンサルタントの社長に就任。