「F1村」が好きだ。 だから仲間を増やしたい――第153回 (上)
モータースポーツジャーナリスト 津川哲夫
構成・文/浅井美江
撮影/岡島 朗
週刊BCN 2016年02月01日号 vol.1614掲載
F1の世界で津川さんを知らない人はモグリだ。27才の時、富士スピードウェイでガードレールにしがみつきながらF1を観戦した。それに魅せられ、半年後、なんのツテもコネもないまま、単身ヒースロー空港に降り立つ。その口調は歯切れがよく、べらんめえ調なのに温かい。思わず見出しにしたいほどの“いい言葉”がぽんぽん飛び出す。一生をかけて惚れこめることに出会えた人生。なんと素敵で痛快なんだろう。今も、27才のままだ。(本紙主幹・奥田喜久男)
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
F1に魅せられ、半年後には単身渡英
奥田 津川さんといえばF1ですが、そもそも小さい頃から自動車がお好きだったんですか。津川 小学、中学の頃から自動車レースが好きで、よく親父に連れてってもらってたんです。大学時代は自分でもラリーで走ったりしてました。
奥田 レースの何がそんなに人を夢中にさせるんですか。
津川 僕らの世代にとって、自動車というのは進歩であり、力なんです。自分ではできないけど、自動車を駆れば自分以上の力が出せる。そういうものに憧れがありました。レースを始めた頃に、大先輩が教えてくれた言葉があって、今も大事にしてるんですけど、「レースとは弱者の主張である」と。
奥田 なるほど、言い得て妙ですねえ。
津川 弱いものが機械をもって強いものを打ち負かすことができる可能性がある。だから弱者の主張だと。それを聞いた時はもうしびれちゃって。以来、ずっとしびれてます(笑)。
奥田 そうやってレースの世界に飛び込まれたんですね。F1との出会いにはどんなドラマがあったんでしょう。
津川 大学を卒業して、レースに関わりたかったんですが、当時の日本にはそういう状況がなくて、老舗の板金会社に入りました。少しはレーシングカーに関われるようになったんですが、やっぱりなんか違うんです。かなり悶々とした時期がありました。
奥田 それが1970年代の中頃ですか。
津川 そうです。そんな時に「F1世界選手権イン・ジャパン」が富士スピードウェイで開催されたんです。1976年です。それを観た時に、もう超ショック! 目からうろこなんてものじゃなくて、殻破って完全に脱皮しちゃったくらいのすごさでした。
奥田 津川さんのなかでどんな状況になったんでしょうか。
津川 「これだ! これなんだ!!」って決まっちゃったんです。それまで観たレースとまったく違う迫力。開催期間中、友達と山の上にクルマを停めて、そのなかで寝泊りしてたんですが、夜、パドックに行くと、メカニックとか、まだみんな働いてるわけ。そういう方たちと、片言にもならない英語で話したり、作業の様子をみたりしてると、もうそこでやっていることや、レースのあり方や作業の仕方すべてがオーガナイズされていて、なんだろう、パーッと光が当たっていて、「はい、いらっしゃい!」みたいな(笑)。
奥田 それで英国に飛ぶんですね。
津川 はい。富士スピードウェイでF1を観戦したのが10月だったんですが、翌年の5月18日にはロンドンのヒースロー空港に立ってました。
奥田 何かツテとかコネはあったんですか。
津川 いえいえ、まったくなかったです。とにかく行っちゃった。英語はしゃべれない。どこへ行っていいかもわからない。その日泊まる宿さえ決まっていない状態でした。
奥田 それが第一歩ですか。そこからどうされたんですか。
津川 唯一知っていた「ビクトリアステーション駅」までバスで移動して、インフォメーションセンターで、汚い安いホテルを予約してもらって、そこに泊まりながら、下宿をみつけて、そこから仕事を探し始めました。
奥田 へえ~、どうやって探されたのですか。
津川 向こうで発刊されている『AUTO SPORT』というモータースポーツ系の雑誌があるんですが、仕事の募集欄がありまして。そこに掲載されている会社の上から下まで全部に手紙を書きました。英語がわからないから、どんな仕事なのかもわからないんですが、まあレース関係だろうということで。ちゃんと数えてはないけど、90や100は出したと思います。
メカニックはF1へのファーストステップ
奥田 片っぱしから手紙を送って、返事はあったんですか。津川 ほとんど返ってこない。でも、4通だけ戻ってきました。二つはことわりの手紙。残る二つがインタビューに来いと。でも、一つは僕がワークパミット(労働許可証)をもっていないので、ことわられました。最後に拾ってくれたのが、ジョン・サーティースが率いる「サーティース」というチームです。そこからずっとF1に関わっています。
奥田 それからずっと英国在住ですか。
津川 最初からそのつもりで行きましたから。そうやって僕がF1に関わり始めた頃から、日本でF1ブームが起きました。日本にいる若い人から、「F1やりたいんですけど、どうしたらいいんですか」って聞かれますけど、そういう時は「どうやろうとやり方は関係ないけど、実際にこちらに来てみないとわからないよ」と答えるんです。「日本にいて、どうしたらいいのって言ってたって、永久にわからないですから」
奥田 同感ですね。
津川 でも、実際に来ちゃってドタバタしてる子には、手を貸します。ただ、来ちゃった、というだけじゃなくてドタバタしてないとダメですけど。
奥田 津川さんはメカニックとして、F1に関わられてきたわけですが、メカの世界で生きていくにはどういう技術、どういうことを自分に備えていると生きていけるんでしょうか。
津川 メカってそんなに特別な技術とかいらないんです。普通の人が丁稚で入って、3年やればだいたい覚えます。ただ、そこから先をどうみるか、次のステップをもっているかどうかが大事です。若い子によく言うんですけど、今から10年後、お前は、やっていられるのかと。メカの仕事って体力的に限界が来ますから。だいたい40歳くらいでしょうか。だから、F1のメカだけをやりたいのか、もっと広く関わりたいのか、自分がどうしたいのかを考えなさいと。
奥田 なるほど、その先をどうみるかですか。
津川 僕は“メカニック”を目指してきたわけではなくて、メカニックを含むF1というレースの世界を目指してきました。だから、メカは僕のステップの一つなんです。
奥田 ということは、目指したのはF1を構成する“人”の世界なんですね。
津川 そうです。間違いなく人の世界です。僕はよく「F1村」っていうんです。F1村の住民が大好きです。僕の友達のほとんどがF1村の住民なんですが、みんなパスポートをもってますよ。
奥田 え。どんなパスポートですか。
津川 ビザがいるんです。村に入るには。F1が好きだというビザが…(大笑)。
奥田 こうしてうかがっていると、津川さんってあてもないのに単身渡英するとか、一見、傍若無人ですけど、実はかなり準備をされるタイプなんでしょうね。
津川 準備というより、次にやりたいことが明確というか方向はみてますね。でも、不器用だから時間がかかるんです。だからメカニックにも13年という時間をかけないと、次のステップが踏めなかったんです。(つづく)
津川さんとともにF1を闘ったパスとドライバー
FOCAはF1のレーシング製造者を中心とした組織。1978年、津川さんはチーム「サーティース」のメカニックとして初めて、このパスを身につけ、ドライバーを手にしてF1に参戦した。このドライバーは90年の最終レースまで使用した。これは誇りだ。Profile
津川 哲夫
(つがわ てつお) 1949年、東京都生まれ。小学生の頃からモータースポーツに関心を寄せる。東海大学卒業後、レースに関わる仕事を探して横浜の老舗板金会社に入社。76年、27歳の時に富士スピードウェイでF1に出会い魅了される。翌年、単身渡英。当時のF1チーム「サーティース」のメカニックとして採用される。以後、41歳で引退するまで、いくつかのF1チームにメカニックとして所属。引退後は、F1のピットリポーターやF1関連の書籍を執筆し、日本におけるF1ジャーナリストとして名を馳せる。