システム在りきではなく、やりたいことが先にあること――第152回(下)
博士(学術)/情報処理学会フェロー 特定非営利活動法人高専プロコン交流育成協会 理事長 神沼靖子
構成・文/浅井美江
撮影/大星直輝
週刊BCN 2016年01月25日号 vol.1613掲載
「学びがすべて」と言い切る神沼先生は、いろいろな分野の方に教えを乞い、さまざまな議論を重ねることに、この上ない喜びを感じるのだそうだ。そうして吸収した学びをもって、次々と新しいことに挑戦し、ゼロからの立ち上げに関わり、惜しみなく多くの人に伝えておられる。「だって楽しいじゃない!」という先生の弾んだ声とはじけるような笑顔を拝見しながら、先生のような人生の先達がいてくださることに、深く感謝した。(本紙主幹・奥田喜久男)
写真2 東京国際フォーラムで開催された「BCN AWARD 2015」と「BCN ITジュニア賞 2015」の授賞式(2015年1月16日)では、賞状と「すぐれた技術で世界の大海原へ漕ぎ出してほしい」という願いが込められた帆船の帆をイメージしたトロフィーが授与される。神沼先生の願いもそこにあるに違いない
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
日本鋼管初の4大卒の技術系女子として造船所に勤務
奥田 前回お話しいただいた、高専プロコンの講評時に子どもたちに出されるコメントの話は、印象的でした。神沼 ありがとうございます。プロコンに関することって、先生方が授業のなかで対応するわけではないので、子どもたちは自分でいろいろ調べるんですね。だから、だいたいはいいんだけれど、ちょっと誤解しているところもある。であれば、そこについてコメントを出す。そういう繰り返しで、彼ら、彼女らはかなり伸びていくわけです。
奥田 その手法というのは、何も高専プロコンだけのことではないですよね。
神沼 そうですね。システムというのは、要するにお客さんがいて、何を望んでいるのかを、システムをつくる側が正しく受け止め、それを反映してきちんとものをつくることが重要です。だから、われわれが高専プロコンの講評で、コメントを出すということは、ある意味出場した子どもたちに対する“発注”なんですね。
奥田 なるほど、子どもたちへの発注ですか。先生は情報システム学がご専門なんですね。
神沼 情報システム学の体系をどうするかとか、そういう学問体系を大学や大学院の教育にどう反映してもらえばいいかという、いわゆるモデルカリキュラムの構築をずっとやってきました。
奥田 ご卒業されたのは、東京理科大ですよね。専攻はなんですか。
神沼 数学なんですよ。
奥田 数学から情報システムへいかれるんですね。
神沼 1950年代の最後から60年にかけてというのは、まだ情報系の学科なんて世の中にない時代でした。たまたま卒業する時に、日本鋼管が情報系のことができる人、しかも女性を求むという公募がありまして。
奥田 その時代に女性限定ですか。
神沼 日本鋼管は、それまで技術系では4年制を出た女性は採用していなかったんです。ゼミの先生に「僕の顔が立たないから、受けるだけ受けてくれ」と言われまして。実は私、すでに他に決まっていたんですけど。
奥田 ゼミの先生の顔を立てて受けられた──。
神沼 でもね、あちこちの大学に声をかけられていたようで、面接には30人ほどいらして。それで採用は1人。
奥田 また、すごい倍率ですね。
神沼 面接の時に、「こういう課題がある時、きみはどういう解決をしますか」という質問を受けまして。大学のゼミで応用数学をやっていて、数値解析や問題解決などもやっていましたから、「私だったら、こういう方法が有効だと思うので、こんなふうにします」と、方法論だけを簡単にお話ししたんです。それが効いたらしくて。
奥田 それで入社されたんですか。
神沼 勤務先は、鶴見造船所でした。初めてコンピュータを導入するということで、いろいろな部署の方が導入組織に関わられていました。そこで私は造船の勉強をして、設計についても学びました。私ね、幼くみえたのかな、中卒と間違えられちゃって(笑)。だからかしら、とても親切に教えてくださって、助かりました。
新しくて楽しいことに関わっていたい
奥田 先生は「情報処理学会」のフェローでもいられるんですが、学会に入られたのはいつ頃ですか。神沼 ええと。設立は1960年で、私の会員番号が1963で始まっているので、1963年に入会ですね。ちょうど日本鋼管から大学に移った頃かしら。
奥田 ということは、先生は52年間会員でいらっしゃるわけですね。今、会員はどのくらいいらっしゃいますか。
神沼 一番多い時で3万人、それから徐々に減って今は2万人弱です。最近、高専生も学生会員の資格で入れるようになったんです。昨年の長野大会の時にも高専生に宣伝したので、かなり入会したのではないでしょうか。
奥田 先生のキャリアに話を戻しますと、日本鋼管に3年おられて、その後横浜国立大学ですか。
神沼 そうです。大学の先生から転職を勧められまして。機械工学科でプログラミングなどを担当しておりました。
奥田 横浜国大の後、埼玉大学の電子工学に移られて。
神沼 はい。十年ちょっとおりました。その後、千葉のほうに情報システム学科をつくるので、手伝ってくれと言われまして。
奥田 それが帝京技術科学大学(現:帝京平成大学)ですね。情報システムがご専門だけれども、機械工学から電子工学。先生は万能選手ですね。
神沼 いえいえ。そんなことないんですよ。でも、そこ(帝京)では、大学を建てる土地だけが決まっていて、すべてはゼロからの出発という状況だったので、建設の打ち合わせにも参加しなきゃいけなくて。
奥田 今度は建設ですか(笑)
神沼 そういうのってすごく楽しいですよね。今までやっていなかった学科に行くとか、初めて何かをするとか。
奥田 勉強が好きだということでしょうか。
神沼 いえいえ。お勉強はそんなに──。こうしなさいと言われてやるのは好きじゃないんです。それより課題が出てきたとき、それを解決していくのがとても楽しい。私の人生って、学びなんです。いろいろなことを学んで、それを使って何かできることを、プロジェクトとしてみんなと一緒にやりましょうと。
奥田 日本鋼管もコンピュータ室の立ち上げでしたね。
神沼 何だか立ち上げに関わることが多いんですよ。
奥田 帝京の後はどうされたのでしょう。
神沼 前橋工科大学に呼ばれまして。4年制の大学をつくるから、来てくれないかと。
奥田 そこは何年につくられたんですか。
神沼 前橋はね、1997年の4月に開学してますね。
奥田 次に新しいことをされたのは?
神沼 前橋を定年で退職した後なんですけど、以前いた埼玉大学で、マスターコースをつくりたいという話があって、客員教授という形で協力させていただきました。私ね、常に新しくて楽しいことには関わっていたいんです。
奥田 神沼先生の元気の素がわかる気がしました。本日はありがとうございました。
こぼれ話
人にはそれぞれの雰囲気がある。神沼先生は安定感を感じさせるタイプだ。この人に任せておけば安心、といった感じ。安定感は信頼につながる。一つの案件が成功裏に終わると、次の案件がくる。繰り返すうちに先生自身が進化し、「新しいプロジェクトに携わることが楽しみなの」と、話しぶりは熱気を帯びる。活動の領域は情報処理学会とその周辺だ。この学会は当業界の名門で、そのなかにあって“かみぬま“という名は輝きを放っている。長い経験と女性という立場で仕事を貫いてきた姿勢は、先生を一層際立たせている。記憶をたどると、情報処理の業界にあって女性の先駆者としては、山本欣子さんがおられた。お二人とも功労者である。
対談を終えてお見送りした。そのおり、高専プロコンで優勝した子どもたちを「BCN AWARD 2016」に今年も招待することをお伝えした。すると「あの授賞式はどこがすぐれているかおわかりですか」。それなりに答えると「大人たちの授賞の場に、子どもたちの授賞式を設けたところがすぐれているの」。光栄に感じた。同時に「さらにその先を考えなさい」と指導していただいた気がした。「はい、考え続けます」。
Profile
神沼 靖子
(かみぬま やすこ) 1961年東京理科大学理学部数学科卒。同年日本鋼管(株)鶴見造船所(造船設計部技師補)入社。その後、横浜国立大学、埼玉大学、帝京技術科学大学、前橋工科大学に教員として勤務。2007年退官後は、埼玉大学大学院(客員教授)。情報システム学を専門とし、84年情報システム研究会、05年情報システム学会、06年実践的ソフトウェア教育コンソーシアム設立に関わる。90年から、全国高等専門学校プログラミングコンテスト審査委員を務め、02年同審査委員長に就任。14年に、NPO法人高専プロコン交流育成協会(NAPROCK)の四代目理事長に就任。