“町の電器屋さん”を救うのではなく、協業・共生の仕組みをつくる――第129回(上)

千人回峰(対談連載)

2015/02/19 00:00

三浦 一光

三浦 一光

コスモス・ベリーズ 代表取締役会長

構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄

週刊BCN 2015年02月16日号 vol.1567掲載

 三浦一光さんが会長を務めるコスモス・ベリーズの加盟店の総店舗数は、設立10年目にして1万店超。その約半数が、いわゆる「町の電器屋さん」だ。その町の電器屋さんをFCやVCというかたちで家電量販店の巨人ヤマダ電機と結びつけ、量販店と地域店の共生の仕組みをつくった。かつて松下幸之助氏が系列ショップに「得意先の電気係になろう」と呼びかけたように、コスモス・ベリーズは「あなたの電気係」を究めるという。しかし、そこに至る道程はけっして平坦なものではなかったようだ。(本紙主幹・奥田喜久男)

2014.11.28/東京・港区の芝パークホテルにて
 
心に響く人生の匠たち

 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
 
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
 
<1000分の第129回(上)>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

テレビ草創期に飛び込んだ家電の世界

奥田 私どもBCNのコンセプトは「流通を制する者が市場を制す」ということで、いろいろな方にお会いしてお話をうかがっていますが、三浦さんほど家電とITの流通について先が見えている人はいないと思います。

三浦 いや、正直なところ結果論なんです。高邁な理論があったわけではありません。立派な経営理念を打ち立てた会社が大きくなるかというと、そんなことはないでしょう。何かを成し遂げた後に、結果が残されるというだけのことですよ。

奥田 三浦さんは松下電器産業(現パナソニック)のご出身ですが、現在までの足跡を教えていただけますか。

三浦 私は岐阜の田舎の高校を出て、教員になろうと思っていました。ところが大学を受けようとしたら、親父が農業をやめて、名古屋に出て商売するというんです。仕方がないので大学へは進まずに、親父の商売を手伝っていたのですが、アルバイトで松下電器のテレビジョン名古屋営業所に行ったのが、その後40年間、松下で働くきっかけとなりました。

奥田 当時はテレビの草創期ですよね。

三浦 そうです。今の価格に換算すれば、当時のテレビは1000万円を超えるくらいでしたね。私の初任給が6000円の当時に41万円もしました。そこで販売前にテストをする仕事をしているうちにテレビがものすごくおもしろくなって、そのまま松下に居座っちゃったんです。

奥田 じゃあ、19歳からずっと松下で?

三浦 最初は営業技術です。松下のテレビ学校の一期生です。ただ、教わるのは直すだけの技術ですから、回路を設計するところまではできません。次にやったのが、難視聴対策の工事です。山の上にアンテナを立てて、電波を同軸ケーブルで下に届ける。つまり、テレビを売るためにインフラを整えたわけです。

奥田 そういう方が、どういうわけで系列店や販売の前線に移られたのですか。

三浦 テレビが映らない場所はほとんどなくなって、もう任務は終わったから解散しようということになりました。当時の松下にはセールスプロモーターという制度があり、余剰人員はみんな販売店回りをしたんです。

奥田 松下幸之助さんはどんな方でしたか。

三浦 創業者は聞き上手といわれていますが、小学校にもろくに通えなかった生い立ちゆえに、すべての人が先生だったんですね。聞いて勉強するということが身について、成功されてからも聞くことがものすごく上手でした。一番印象に残っているのは、コーヒーメーカーで他社に負けたときのことです。私は営業本部にいたのですが、その対策を営業本部と電熱事業部で考えて報告に来いということになりました。ところが創業者の部屋に行ったら、そこに外国の製品を含めてすべてのコーヒーメーカーが並んでいる。こちらに都合のいい報告なんてできるはずがありません。つまり、報告書を出す前に創業者は全部聞いて調べているわけです。営業所長が報告するときも同じで、事前に販売店から様子を聞いています。報告を聞いて「そうか、そうか」と言いながら、全部本当のことを知っておられました。

奥田 イヤな人ですね(笑)。
 

三度目の縁で社長に就任するも意外な事実が……

奥田 松下、テイチクを経て、なぜ豊栄家電に移られたのですか。

三浦 豊栄家電が1971年にできたとき、私は松下の名古屋営業所の量販課長でした。豊栄家電は有力なナショナルショップが4店集まってできた混売店だったので、私が担当しました。ところが、系列店と量販店では仕入条件がまったく違います。豊栄家電の創業者の中嶋武則さんは系列店を経営していた人ですから、商売に対する考え方の違いで大げんかになったんですよ。系列店は利幅が3倍も違う。私が提示した仕切値をみて、「うちをなめている」と。系列店のほうがずっと条件がいいわけです。それで衝突したのですが、どこかお互いに共鳴するところがあったんですね。

奥田 どんなところに?

三浦 それまで、松下に逆らう人なんていなかったからでしょうね。当時の松下は、看板のデザインを統一するなど、フランチャイズ(FC)でないと取引しない姿勢でした。でも中嶋さんの理論は、ボランタリーチェーン(VC)なのです。中嶋さんは中部で随一の家電店を経営しているのに、あえてVCをやると言います。立派だとは思いましたが、私は、VCというのは共同仕入れだから取引しませんよと言ったわけです。それから1年経って、中嶋さんはFVCという案をつくってきました。VCのようだけどFCの要素は満たしているということで、取引がスタートしたんです。

奥田 40年以上前の縁ですね。

三浦 もちろんそのときは、私が豊栄家電の経営者になるなどと考えもしませんでしたが、その後、家電営業本部で量販部長をやっているときに、中嶋さんが自分の後に三浦を社長としてほしいといってきたんです。当時の私はまだ50歳くらいでしたし、松下に愛着もあったので、結局行きませんでした。それで、テイチクの社長退任後に名古屋の量販店に挨拶回りをし、豊栄家電にも顔を出したら、創業者の中嶋さんと当時の社長が揃って神妙な顔をして「三浦さん、社長を探しているんだ」というのです。

奥田 63歳のときに2回目のオファーが来た、と。

三浦 そう。ご縁ということでいえば、最初は担当営業となり、途中で社長になってくれといわれ、最後に社長になっちゃった。

 豊栄家電のピークは、大店法で売場面積が制限されていた時期でした。豊栄家電というのは組合で、加盟店は出資者です。本来は町の電器屋さんですが外見は量販店であり、優位に戦うことができたのです。ところが大店法の規制が緩和されると、それについていくことができない。相変わらず100坪前後のままで本物の量販店の真似をしたところで、勝てるはずがありません。加盟店はどんどん廃業していきます。実は、私が社長を引き受けたとき、豊栄家電は死に体だったんです。(つづく)

 

「千客万来」の額

長年、家電販売に携わってきた三浦さんの好きな言葉は「千客万来」。これはコスモス・ベリーズの会長室に掲げられているもの。「無名の人が書いたものですが、ずっと大事にしています」と三浦さんは語る。

Profile

三浦 一光

(みうら かずみつ)1936年10月、岐阜県生まれ。56年2月、松下電器産業(現パナソニック)入社。名古屋営業所、大阪商事営業所、北海道家電営業所長、名古屋リビング営業所長、リビング営業本部副本部長、松下エレクトロニクス社長、ビデオ事業部長などを歴任。96年6月、テイチク(現テイチクエンタテインメント)社長。99年12月、豊栄家電社長。2005年9月、コスモス・ベリーズ会長。13年6月、日本ボランタリーチェーン協会理事に就任。