100年の時を超えて他にない価値を生み続ける――第122回(下)
福家 一哲
代表取締役社長
構成・文/浅井美江
撮影/津島隆雄
週刊BCN 2014年11月03日号 vol.1553掲載
ライカの哲学の一つに、デザインは“UNDERSTATE”、すなわち「控えめであること」があるそうだ。主役は被写体、カメラはあくまで撮影のツールであるがゆえに、ギラギラした主張はいらない、というわけだ。しかし、ライカはただ控えめなのではない。控えているのに存在感がある。主張しないのに深い印象を残す。このありようは実はとても難しいのだが、福家一哲社長のたたずまいは、それを体現しておられるようにみえる。企業と人はこんな風に呼応し合うものなのかと驚いた。(本紙主幹・奥田喜久男) 【取材:2014.8.19/京都・祇園花見小路の「ライカ京都店」VIPサロンにて】
写真1 京町屋にすっかり溶け込んだつくりで、カメラの店とは思えない
写真2 ライカのイメージカラーである黒と赤で統一した売り場。現行の製品がフルラインアップされている
写真3 ギャラリーには写真家集団「マグナム・フォト」のフォトグラファーの作品が展示してある
写真4 古都の老舗とのコラボレーションによって、京都店オリジナルのカメラアクセサリが生まれた
写真5 和室のスタジオは、店のお客様を対象にして、舞妓さんなどをモデルにする撮影会を計画しているそうだ
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
ライカの哲学の一つは「控えめであること」
奥田 ライカに関わりをもたれたのは、いつからでしょう。福家 7年半ほど前になります。
奥田 きっかけはなんですか。
福家 前職はエルメスジャポンで、時計事業を担当しておりました。ある日、エルメスの当時の社長に呼ばれて、ライカカメラジャパンの仕事があるけどどうかなと。実は、ライカカメラジャパンの設立時に、少しお手伝いをしたんです。時計を担当していたので、同じ精密機器だからと。まったく違うのですが……、しかしライカはとてもユニークで、「楽しいかもしれない」と想像したこともあって、やってみることにしました。
奥田 いつ頃の話ですか。
福家 47歳のときでした。
奥田 エルメスからライカとは。世界のブランドから世界のブランドへ、ですね。
福家 エルメスは確かに世界に冠たるブランドですが、元々は手仕事で“ものづくり”をしていたメーカーです。手をかけて時間をかけたことに対する対価で商売をされていて、原点は今でもそこにあると思います。そういう意味では、カテゴリは違いますが、ライカと共通点がある気がします。
奥田 少しものづくりの領域についての質問をします。ライカにしてもそうですが、ドイツがつくるものは美しいですよね。なぜ、こういうものが生まれてくるのでしょう。
福家 私の解釈では、まず「こだわりがある」。そして「妥協をしない」ということでしょうか。使う素材や形、耐久性にしても、とにかく妥協をしない。そして、ライカに関しては完全にそうなのですが、人間工学に基づいたつくり方をしていると思います。手に持ったときの心地よさとかグリップ感を大切にしている気がします。よく「機能美」という表現をしますが、それはどういうことかと考えたら、結局のところは気持ちよく、持ちやすく、使いやすくつくっていった最終の完成品が、自然に美しくなっているのではないか、と。
奥田 気持ちよく、使いやすいところにこだわり続ける。そして妥協をしない。
福家 それともう一つ、ライカの哲学、というか大事にしている価値の一つに、デザインにおける“UNDERSTATE”という概念があります。日本語にすると「控えめであること」。デザインにおいては控えめでありたいと。ギラギラした主張はしないということです。
奥田 アメリカのベンチャー企業とはまったく逆ですね。
福家 非常に地道に進む会社だと思います。
価値を継承することで100年を生き残る
奥田 カメラはハードですよね。私たちのIT業界はソフトウェアの存在がかなり大きいのですが、ものづくりを考えたときに、ドイツの人にとって、このハードとソフトのつくり方に違いはあるのでしょうか。福家 ドイツには規模は小さいけれど、技術では世界チャンピオンという会社がとても多いのです。かつては「いいものをつくれば自然に売れるだろう」とか、「売れないのは営業のせいだ」という、やや不遜な、いわゆる技術優位主義があったのですが、今は違います。自分たちがつくっているものに対する営業力がものすごく強い。それがハードであれ、ソフトであれ、サービスであれ、いかにすぐれているか、いかに役に立つのかを自分たちでちゃんと説明する努力をしています。
奥田 その営業力のモチベーションの源というのは、給与でしょうか。
福家 所得はもちろんあるのでしょうが、むしろプライドではないかと思います。あとは、結果を出したいということ。自分たちがNo.1であることのプライドがとても強いと思いますね。
奥田 「ものづくり日本」という言葉がありますが、日本人はハードに対しては技術レベルが高いけれども、ソフトに対してはそれほどではないといわれます。ドイツには「SAP」という非常に強いソフトの会社がありますが、そうして考えるとドイツ人はソフトもハードもいいものをつくっているんですよね。
福家 なるほど、そういう見方はできますね。
奥田 だから「ものづくり日本」というと、ハードに限定されがちだけど、僕はソフトもハードも根っこの部分に共通したものがあるんじゃないかと思っています。例えば先ほど福家さんがおっしゃったプライドのようなものを、日本人がもっと強くもつことができれば、ハードだけではなくて、ソフトも世界に冠たるものができるのにと考えているんです。
福家 今、私どもが掲げているのが、「ライカを持つ喜び」をお客様に提供していこうという取り組みです。例えば「ライカアカデミー」という、カメラを学ぶセミナーを世界各地で行っています。すでに銀座店でもスタートしました。さらに、撮影会やイベント、パーティを開いてお客様とお話をしたり、フォトコンテストを開催してお客様にご参加いただいたりする機会をもとうとしています。つまり、カメラというハードを売って終わり、というのではなく、さまざまなかたちでお客様に喜んでいただくためのサービスを増やしていこうとする試みです。
奥田 ライカは最初のカメラの誕生から100年を迎えられました。今後100年、ライカは生き残っていますか。
福家 はい。私はそう信じています。
奥田 生き残る要素があるとすれば、どのあたりでしょうか。
福家 やはり価値を継承する意欲があることと、これまで実際に成し遂げてきたことを考えると、確実に生き残ると思います。あとは自分たちが他との差異化要素をもっているという認識、そして絶対にそれを壊すようなことをしない。自分たちの財産を切り売りしないという強い意識をドイツ人はもっています。ですから、自分たちのやっていることが、短期でなにかを売り上げる仕事ではないとよく理解しています。過去につくったものに対する強い想いと、時代を超えて同じ価値を提供し続けていくことで、ライカは続いていくと思います。
奥田 すばらしい。本日はありがとうございました。
こぼれ話
祇園花見小路通のど真ん中で男のツーショットというのは無粋ですよね。ということでライカカメラジャパン企画部の田中絋子さん(左端)とライターの浅井美江さんに特別参加をお願いして、艶を出しました。これで、赤いライカのロゴも見栄えがよくなるというものです。ライカ誕生100周年を日本で盛り上げている社長の福家一哲さんにお会いしたいなと思っていたら、「俺、親しいよ」と軽い感じでシュッピン社長の鈴木慶さんが仲介を取りもってくれた。昨年末のことだ。この話がどんどん進んで、今年8月にインタビューが実現した。祇園とライカ。ともに100年の歳月を経て、独特のオーラを放っている。10月に裏千家が催した明治神宮の献茶式に参加した。その数200人は超える和服の女性が境内を移動する姿に、世界から訪れる観光客がこぞってレンズを向ける。「あっ、ライカだ」。カメラを手にする男性と目が合った。顔を見合わせて、ニヤッとした。
Profile
福家 一哲
(ふけ かずのり) 1960年大阪市生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、服部セイコー(現セイコーHD)入社。2002年、エルメスジャポン時計事業部長。2007年4月より現職。世界初のライカ直営店であるライカ銀座店など、ライカストアブティックを軸に、19世紀創業の名門、独ライカカメラの21世紀を担う。2014年3月には京都祇園にフラッグシップストア、ライカ京都店をオープン。ドイツのクラフトマンシップと、1200年以上の歴史と文化をもつ京都のマリアージュにより完成したライカ京都店は、国内外で話題になっている。