プレミアムな使用者経験こそがシェアアップをもたらす――第94回
日本エイサー 代表取締役社長 詹國良
構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄
日本エイサーの社長に就任して丸10年になる詹國良(ボブ・セン)さん。ITバブル崩壊後に分社化した会社の舵取りを任され、その後むずかしい局面を何度も乗り越えてきたはずだ。話のなかで「ディシジョンのスピード」という言葉が何度も出てくるのが印象的だったが、単純にスケールとスピードを求めることはもはや成功の方程式ではなくなったとも冷静に分析する。おそらく、それが成熟したマーケットに挑む経営者の姿勢であり、絶妙なバランス感覚なのだろう。【取材:2013年6月19日 東京・新宿区西新宿の日本エイサー本社にて】
「チャネルをハッピーにできれば、
当社もハッピーになれる」と詹さんは語る
当社もハッピーになれる」と詹さんは語る
「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 会長 奥田喜久男
<1000分の第94回>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
プロダクトマネジメントとセールスに携わる
奥田 エイサーといえば台湾パソコンメーカーの老舗ですが、詹さんがその日本法人の社長に就任されるまでの経歴を教えてください。詹 私が初めて日本に来たのは1990年で、95年に専修大学を卒業した後、約2年間日系企業に勤めました。それもIT企業ではなく自動車部品の販売会社でしたが、そこでプロダクトマネジメント業務に携わった後、98年にエイサーに移り、本社で短期間のトレーニングを受けて、すぐに日本に戻ってきました。
多くの外資系パソコンメーカーでは、本社や同業他社でキャリアを積んでから日本の責任者に抜擢されるというパターンが多いのですが、私は最初から日本国内の現場でカスタマーサービスやプロダクトマネジメントに携わっていました。その点が少し変わっているかもしれません。
奥田 プロダクトマネジメントとは、具体的にはどんな仕事なのでしょうか。
詹 プロダクトマネジメントは、私が現場で一番長く携わった仕事ですが、本社側のプロダクトマネジメントとフィールド(日本)側のそれがあります。私の担当は日本側のプロダクトマネジメントですので、ものづくりの後半にあたります。いわゆる商品企画という性格が強いのですが、具体的にいえば、本社が用意している商品ラインアップのうち、どれを日本に導入して、どういう商品戦略を展開していくか、どのように差異化を図っていくかということが仕事の主な内容でした。
私がプロダクトマネジメントに携わっている間に、社内のセールスチームも活動しているわけですが、セールスチームを通じてチャネルパートナーやお客様に製品のセールスポイントを伝えきれないケースがたくさんあると感じました。そこで私は、プロダクトマネジメントをやりながら、積極的に販売チャネルに出向いてセールスを行ったのです。そういう経緯があって、結果的には日本におけるプロダクトマネジメントとセールスの両方の責任者を任されることになりました。
奥田 その後、エイサーは分社されますね。
詹 当時のエイサーには大きく分けて、OEMサービス事業、コンポーネント事業、自社ブランド事業という三つの事業があったのですが、2000年から2002年にかけて、この三つの領域のなかでいろいろなコンフリクト(衝突)が発生していました。そこで、それをいったん整理するために、エイサー、ウイストロン(Wistron)、ベンキュー(BenQ)という3社に分社したんです。この分社の最も大きなポイントは、従来のマニファクチャリングのエイサーから、ファブレスとなりブランディングに力を注ぐエイサーに切り替わったということでした。
人とテクノロジの間の壁を取り除く
奥田 03年に入って社長に就任され、どんな施策を実行されましたか。詹 分社した直後ですが、全体の市場環境はよくありませんでした。2000年のドットコムバブル崩壊の影響もあり、当社だけでなく、各社とも収益性は低かったのです。
日本エイサーの財務体質も、02年まではあまりよくありませんでした。そこで私は「選択と集中」ということで、まず範囲を絞ってその分野にフォーカスし、絶対に自信のある部分からリスタートしたんです。パソコンを自社製からファブレスでOEM委託に切り替えたのもこの時期ですが、幸いなことに私が着任してからはほぼ一貫して黒字体勢を保つことができました。
奥田 それはすばらしいですね。そのために特別に実行したことはありますか。
詹 特別ではありませんが、チーム内部での意思疎通を大事にしました。今でも従業員は七十数名と少数精鋭ですが、意思決定のスピードを追求し、現場とマネジメントにギャップがないように心がけています。
日系企業は比較的組織が大きく、グローバル各社に比べて意思決定のスピードが遅いケースがよくありますが、当社の場合は速いスピードで意思決定を行ったことが、競争上有利に働いたと思います。お客様を訪問して商談を行い、いったん持ち帰って検討するというようなことは極力避けるよう心がけました。上司の決裁が必要な場合は、その場で了解をとったうえでお客様にお答えするようにしています。それが、他社との差異化につながったのだと思います。