不易流行、未来に向けて“変えるものと変えないもの”がある――第78回

千人回峰(対談連載)

2013/02/25 00:00

鈴木範夫

鈴木範夫

日興通信 代表取締役社長

構成・文/谷口一
撮影/津島隆雄

 日興通信は1947年6月28日、終戦直後の焼野原の東京で、「通信設備の再建を通して日本の復興に寄与したい」という思いを込めて、先先代の鈴木政雄氏が創業した。創業33年からは通信事業に加え、コンピュータの分野へも事業を拡大した。今年は創業66周年だ。おめでとうございます。さて、次の節目の創業99周年に向かって、三代目はどう舵を切るのか。興味津々でお話をうかがった。【取材:2012年9月5日 東京・世田谷区の日興通信本社にて】

三代目の鈴木さんは言う。「『うちの会社のやり方は』といったことに言及すれば、言った段階で止まってしまう、成功体験になったら終わりだということかもしれません」
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第78回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

電話で商売して、電話で食べているのだから……

 奥田 今年が創業66周年とうかがっています。創業当時のこと、創業者のお祖父さまのことなどからお話しいただけますか。

 鈴木 祖父は戦前、日本電気に10年勤めまして、戦争が始まって中国に行き、幸運にも戻れて終戦を迎えました。だけど、大混乱の時代だったので、日本電気も希望退職を募ったのですね。

 奥田 その時、お祖父さんはおいくつだったのでしょうか。

 鈴木 42歳です。その年で日本電気を退職して、退職金をもらって工事会社をつくったのです。

 奥田 何か動機になるようなことがあったのでしょうか。

 鈴木 電話の技術者でしたが、東京は焼野原で、電話も何もないわけですから、自分でできることを考えたのでしょうね。電柱を立てて、ケーブルを張って、電話をひく、通信をやろうということだったのでしょう。

 奥田 社名もそこからきているのですね。

 鈴木 ええ。日本を復興させるのだということで、日興通信という社名にしたのだと聞いています。生きて帰ってきたわけですから、何か日本の役に立ちたいとか、発展させたいとか、当然そう考えたのだと思います。

 奥田 先代やお祖父さまから、直接、なにか経営哲学めいたお言葉などを聞かれませんでしたか。

 鈴木 社会人なる前ですから経営といえるかどうかわかりませんが、祖父からは非常にありましたね。大変厳しかったです。例えば家で受話器をとる時は、「鈴木でございます」と言いながら電話機に頭を下げるようにせよだとか……。電話で商売して、電話で食べているのだから、電話は大切にしなきゃならんといって、育てられました。一般的に、電話は3回鳴るまでにとれといいますけど、うちでは1回でとらなくては、ひっぱたかれるくらい厳しくしつけられました。そういった細かなことについて、非常に厳しかったですね。

 奥田 そのほかにもいろいろな思い出があるのでしょうね。

 鈴木 当社は今は手を引いているのですが、荒現場の仕事というのがあります。まさに建設現場の工事です。そこでは、200ボルトの電線に触って感電して亡くなるとか、鉄塔から落下したとか、そういう事故が昔はあったんです。

 奥田 電話というと、つい屋内のことを考えますが、屋外のそういった現場工事もあるのですね。

 鈴木 それに関して、30年以上前ですけど、「お前が事業を継ぐようになって、遺体を引き取りにいくのだけはやらせたくないので、うちは荒現場の仕事から手を引く」と祖父が言っていたのを覚えています。別の見方をすれば、当社自身がやらなくても、一つの仕事をするうえでは協力会社にそういう仕事をやっていただいているケースがあるということですね。そういった荒現場がなくては工事を完成することができませんので。ですから、協力会社の安全管理だとか、お金のこととか品質とかを、どう勘案して仕事をこなしていくかを考えていかなくてはならないと思っています。残念ながら、まだそこまで十分に行き届いてはいないのですが……。

 奥田 そういったことも含めての仕事ということですね。

 鈴木 事故が起きて、遺体を引き取りにいくというのは強烈でして、コンピュータのソフトにバグがあって機械が止まったというのは違います。そういったことが会社の歴史としてはあるのですね。

 奥田 お祖父さまからは、将来はお前が継ぐといわれていたのですか。

 鈴木 源氏は三代で滅んだとか、徳川は三代で栄えたとか、そんなことも聞かされましたね。

 奥田 私は、日興通信さんとは長いつき合いで、思い入れも強いのですが、日興という字を改めて見詰めると、ほんとうに創業者は社会性の強い人だったのですね。二代目も三代目も、それを引き継いでいるということですね。

 鈴木 今、ありがたいと思うのは、社名が鈴木通信だとか、そういうのではなくてよかったということです。

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