三つの“境界”を越えることが不幸を潰し、人を生かす――第71回
RGF Hong Kong Limited 取締役社長 村井 満
構成・文/小林茂樹
撮影/津島隆雄
日・中・韓にまたがる市場が未来を拓くという仮説を立て、BCNの日常的な取材の土俵をこのエリアに拡げたのは2010年3月のこと。それ以来、私は毎月、中国のいずれかの都市の土を踏み、巨大市場の鼓動を直に聞き取ることを自分に課した。そんななか、リクルートが、中国そしてアジアの主要都市で本格的に人材紹介事業を展開することを知り、深い興味を抱いた。人そのものがビジネスの対象だからだ。東京から香港に居を移し、この事業の指揮をとる村井満さんにじっくりとお話をうかがった。【取材:2012年4月19日 東京・千代田区のリクルート本社にて】
「私どもが越えようとしている境界は、大別して三つあります。それは『キャリアの境界』『資本の境界』、そして『国境』です」と、村井さん
「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
<1000分の第71回>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
奥田 村井さんは、現在、香港にあるリクルートの海外展開拠点であるRGFの社長を務めておられますが、ここに至るまでの道筋を簡単に聞かせていただけますか。
村井 私が大学を出てリクルートに入ったのは1983年ですから、もう29年前になります。最初の配属が東京の秋葉原です。当時、サトームセン、ラオックス、ヤマギワなどの総合家電量販店の店舗が目抜き通りに並んでいて、私はその裏通りにあるジャンクショップのような小さいお店を毎日訪問しては、求人広告の営業をかけていました。きわめてドメスティックな活動をしていたのです。
1988年にリクルート事件が起きて、会社が吹っ飛ぶような一大事件に発展してしまった頃、私は営業から人事部門に異動になりました。その後、事件は終息したものの、今度はバブル崩壊で倒産の危機に瀕して、流通大手のダイエーに救ってもらったことは皆さんご存じのことと思います。また、かつて私どもの人材情報事業では『就職情報』や『とらばーゆ』といった情報誌を出版していましたが、インターネットの普及によって、2010年で紙媒体はほぼなくなりました。この間に会社は大きく揺れ動き、ビジネスモデルも激変したわけです。
奥田 ということは、リクルート事件以降はずっと人事畑ですか。
村井 人事の時代がずいぶん長かったのですが、会社の借入金の返済がすべて終わり、立て直しもめどがついたので、ようやく2004年に念願かなって人事から事業部門に出ることができました。手がけたのは、人事部門にいたときに有望性を感じた人材紹介事業です。この年にリクルートエージェント(当時はリクルートエイブリック)の社長に就任しました。
生産拠点から消費市場へ 求められる人材が変わる
奥田 中国やASEANへの展開は、いつ頃からでしたか。村井 私はリクルートエージェントの社長を7年間務めたのですが、最後の2年間、2009年から10年にかけては、月のうち半分ほどは海外出張で、兼務するようなかたちをとっていました。
今、中国は世界の生産拠点から消費市場に変わりつつあります。つまり、品質管理や生産管理に長けた人材だけでなく、営業やマーケティングの責任者、中国人に合わせた商品の開発に携わる技術者などを急いで投入しないと競争に勝てないわけです。これは片手間ではできません。そこでリクルートエージェントの社長を退任し、昨年の4月には香港に居を移して、海外での人材紹介事業に集中することにしました。
奥田 海外での事業展開に際しては、どんな点に留意しておられますか。
村井 一つは、就職・転職の媒介となるサービスなので、かたちのある製品とは異なり、相当にローカライズしていく必要があるということです。日本でやってきたことをそのまま持ち込むことはできないだろうという仮説を立てていました。雇用に対する認識は、それぞれの国の文化によってまったく異なるからです。
その一方で、国ごとにバラバラにつくり込んでいったら、われわれの事業としてのブランドや哲学がまったく統一できないという懸念もありました。そこで、拠点のリーダーたちと1年近く議論し、「境界という壁を越える」をキーフレーズとしました。
「境界という壁を越える」ことが事業の原点と捉える
奥田 「壁を越える」ですか。村井 はい。私たちの周りにはさまざまな境界、境目が存在しています。例えば身近なところでは、性別による処遇の違いや、本質を離れた学歴や年齢などによる格差などが厳然としてあります。
私どもが越えようとしている境界は、大別して三つあります。それは「キャリアの境界」、「資本の境界」、そして「国境」です。
奥田 具体的には、どんなことでしょうか。
村井 まずキャリアの境界ですが、例えば、経営者になるためにはMBAが必須という国や企業があります。けれど、私たちが介在することで、「学歴はそれほど高くないけれど、この人はここまでの仕事の実績がある」と売り込むことができます。これがキャリアの境界を越えることの一例です。
「資本の境界を越える」というのは、私たちのサポート対象を日系企業だけに限ることなく、欧米系企業やローカル企業にも拡大して、より広範な人材の流動化によって大きなイノベーションを起こそうということです。もう日系企業の間だけで日本の人材を動かす時代ではありません。そのために、中国No.1のエグゼクティブサーチ企業であるBó Lè Associates,Ltd(伯楽)と資本提携し、互いが抱えている顧客と人材を相互に紹介する事業を展開しています。
そして、国境については単純な話ですが、中国、インドを含むASEANの主要拠点すべての国境を越えて展開するということです。