中国に日本のビジネスモデルは通じない――第53回

千人回峰(対談連載)

2011/06/17 00:00

川島 義之

川島 義之

リンクスインターナショナル 社長

構成・文/谷口一

グローバルでなければと思い込んでいた

 奥田 そういった海外との貴重な経験を経て、1999年に独立されるわけですね。どんな方向でビジネスを展開していこうと考えておられたのですか。

 川島 シリコンバレーや台北に拠点をおいて、グローバルにビジネスをやっていかなくてはならないと考えていました。日本はもうハシゴを外されて、台湾と中国とアメリカのトライアングルでビジネスが成り立っていくとみていました。日本の市場だけでビジネスをするのは、将来的にも難しいと。

 奥田 いつ頃からそう考えておられたのですか。

 川島 それは会社の設立当初から考えていました。

 奥田 その頃はもう中国も照準に入っていたのですか。

 川島 入れていましたね。中国のどこにするか、まだ漠然とした感じでしたが、拠点を築こうと考えていました。

 奥田 実際にビジネスを始めて、中国の人や台湾の人にどんな印象を受けましたか。

 川島 信用という面では難しかったですね。まったく信用関係のないなかでビジネスをしていかなくてはならないという、そういうフィールドですから、手探りでやらざるを得ないわけです。で、結果的には、そこでガツンとやられてしまいましたが…。

 奥田 2007年、上海に拠点を設立されたわけですけど、その辺りの経緯を掘り下げていただければ。

 川島 ええ。2年間はまず現地を知って、携帯電話のコンテンツとかセキュリティソフトとか、本業と少し離れたところでビジネスを探していました。だけど、中国ではもう販売ルートがある程度確立されていて難しくなっていたんです。

 奥田 出遅れた、と。

 川島 実際には、遅いというレベルじゃなかったです。いまさらっていう感じでしたね。だから、日本でやっている本業のパーツ販売の代理店ビジネスを中国上海にもってこれないかと考えた。米国のPCケースであるANTECも中国ではまだブランドを確立してなかったですし、われわれが培った代理店ビジネスのノウハウを中国にもっていって、サービスという付加価値を付けてやれば、絶対に成功するだろうと確信して、2008年にANTECの代理店を上海で立ち上げました。

コントロール不能の流通経路

 奥田 そういう経緯があったのですか。

 川島 しかし、構想はもろくも崩れてしまいました。メーカーも中国の市場はコントロールできない。つまりは、メーカーの協力も得られないのに、上海でANTECの代理店が成功するはずがないということですね。ビジネスをやっていくうちにわかってきましたが、中国には代理店のビジネスが確立していないのです。

 奥田 それでも商品は入っている。

 川島 正規品もありますが、模造品や工場からの横流し品も横行しています。代理店はあるにはあるんですけど、粗利1%か2%で右から左へ流している。利益を取るというようなシステムになってないんですね。裏ではリベートもあるとは思いますが…。

 奥田 メーカーが現地の代理店もコントロールできてないのに、日本から出ていってうまくコントロールできるとは、そもそもメーカーも思ってなかったんじゃないですか。

 川島 ただ私は、日本式のサービスや価格のコントロール、メディアをからめたプロモーションや付加価値のある商品を提供すれば、ある程度成功すると思っていました。

 奥田 そうではなかったということですね。

 川島 どんなにすぐれたサービスを付加しても、中国では受け入れられない。ノーサービスです。

 奥田 ノーサービスっていうことは、値段だけってことですか。

 川島 そう、値段だけです。もちろんこれは私のビジネスに関してのことですが。もともと私がやろうとしたことは、ビジネスモデルとして無理だった。台湾の人がやってもダメだったことが、日本人の私がやってもダメなことは分かりきっていたことなんです。流通チャネルを制御することができないのに、そのチャネルを通じて付加価値を付けてサービスを提供していくなんてことはできないじゃないですか。

 奥田 そこをやろうとしていた。

 川島 そういうことです。ある程度、辛抱強くやればできるだろうと思ってたんですけど、結果的には無理でしたね。

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