中国に日本のビジネスモデルは通じない――第53回
川島 義之
リンクスインターナショナル 社長
構成・文/谷口一
1999年の創業以来、各種PCパーツの販売代理業で成長し続けているリンクスインターナショナル。今回は、順調に拡大する国内事業とは別に、中国向けビジネスにスポットを当てて、実体験にもとづく教訓や学んだことなどについて、川島義之社長に率直なところを語っていただいた。【取材:2011年4月8日 千代田区外神田のリンクスインターナショナル本社にて】
「ビジネスをやっていくうちにわかってきましたが、中国には代理店のビジネスが確立していないのです」と川島さん
「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
<1000分の第53回>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
まさに秋葉原とともに
奥田 今日は川島さんに“素顔の中国ビジネス”というか、感じたまま体験されたままの中国に対する思いのようなものをお聞かせいただければと思っています。そもそも、中国とはいつ頃から事業上の関わりをもたれたのですか。
川島 パソコンのパーツ関係をビジネスにしてきましたから、台湾や中国の人が多いです。会社の設立が1999年で、その当初から中国との関係はありました。
奥田 その辺りの経緯からお願いします。
川島 最初は電子部品の小さな商社に入りました。今から28年前ですから、1983年ですね。もともと私はこの業界に入るつもりはなかったんです。たまたま、学生時代のスキー部の先輩の関係で、設立して間もない会社があるから勤めてみないかと言われて入社したのが、秋葉原にある電子部品の商社でした。
奥田 ということは、まさに秋葉原とともにパソコンの黎明期から歩んでこられたということですね。
川島 そういうことです。
奥田 電子部品を扱ってこられたわけですから、パソコン以前から自ずと中国・台湾とのつき合いもかなりあった、と。
川島 その当時は、とにかく海外から輸入しろということで、相手は中国というよりは台湾と韓国からが多かったですね。ケーブルとか基板、そういう類いのものでした。
奥田 1980年代の韓国はどんな感じだったんでしょうか。
川島 サムスンがある程度伸びてきていました。半導体と液晶のパネルをやり始めた頃です。
奥田 電子部品からずっということは、流通の裏側まで熟知しておられるわけですね。台湾・韓国を相手とする部品の輸出入ということは、いろんなことがあったでしょう。
川島 思い出すと、商談というより運び屋みたいな感じでしたね。