独自の情報分析で中国と日本に提言する――第49回

千人回峰(対談連載)

2011/02/23 00:00

柯 隆

柯 隆

富士通総研 主席研究員

構成・文/谷口一

志賀直哉の『朝顔』

 奥田 ではまず、どういうきっかけで日本に来られたのでしょう。日本に来られる時って、自分で「日本に行きますよ」って選ぶのでしょうか、それとも政府のほうから「行ってこい」と言われるのでしょうか。

 柯 ちょっと長い話になりますが…。

 奥田 はい、けっこうですよ。

 柯 私は高校生の頃は英語が好きで、心の中ではアメリカに留学しようと思っていました。当時はよほど特殊な人以外は、外国語を勉強するといえば英語なんです。自分はとりわけ英語が好きで高校を卒業する時には英語は普通に話せました。80年代の始めです。ここで私の運命を決める大きな出来事が日中間でありました。当時の日本の総理大臣は中曽根康弘さんで、中国は胡耀邦が総書記でした。二人は仲が良くて、胡耀邦が日本に来たときに中曽根さんに言いました。「日中友好をもっと進めたい。そのために日本の若者3000人を中国に招待して交流を図りたい」と。中曽根さんも大物の政治家ですから事務方と相談せずに、その場で合意したのです。

 奥田 この話、どう柯さんにつながっていくのでしょう。

 柯 その合意は、私が高校を卒業する年だったのです。3年後に3000人の日本の若者が中国にやって来ることになりました。一か所にどっと3000人が来れば、受け入れ態勢がないですから、パニックになってしまいます。それで分散することになりました。南京へは800人が来ることになったのです。ちなみにその時の3000人のなかに管直人さんも入っていましたよ。

 奥田 へぇ、そうですか。

 柯 3年後、南京に800人の日本人の青年が来るというのは、南京にとって困ったことでした。通訳がいないからです。私が大学の英語学科を受験した頃です。そして9月には大学の合格通知が届きました。封筒を開けてみると、英語科ではなくて日本語科合格と書いてありました。ちょっと待ってよ、これ間違っているよと大学に電話したら、「間違ってはいない。今年はフランス語学科もドイツ語学科も英語学科も全部キャンセル、全員が日本語学科、党の決定で任務として3年後に通訳ができるようにがんばりたまえ」と…。これがすべてのスタートです。

 奥田 なんとまあ。

 柯 昨日までシェークスピアを読んでいたのが、「これは何ですか?」「机です」ってな具合に日本語を一から始めたのです(笑い)。経済や政治や社会というような学問はわりにゴマカシがきくんですが、言葉っていうのはそうはいきません。実際に通訳をするわけですから。

 奥田 わかります。

 柯 最初は日本語に違和感がありました。まったく未知の言葉ですから。どうすれば日本語がうまくなれるのか。一生懸命考えて悩みました。それで気がついたのは、ある外国の言葉をマスターするのには、その国の文化を好きにならなければダメなんだってことでした。言葉は表層的なもので、その底流にある文化が重要なのだと。でも当時の南京では日本の文化に接することができない。ただ、南京に1軒だけ外国の文学などをコピーして売っている外文書店というのがあって、菊池寛や志賀直哉や、昔の日本の大家が書いた本がたくさん置いてありました。私はそれらを大量に買ってきて、毎朝1時間くらい声を出して読みました。

 そうしていると、1年も経てば語感というのか、言葉のフィーリングが身についてくるわけです。漱石や志賀直哉を読んでいると、これはすばらしい言語だ。やさしい言語なのだと気づきました。今でもよく覚えているのが、志賀直哉の『朝顔』という短文です。最初は理解できなかったけれど、何十回、何百回と読んでいるとわかってきます。志賀直哉が言いたいことや、その朝顔の「みずみずしい」感じが。「みずみずしい」という表現は日本語以外にはないんです。英語にも中国語にも。これは素晴らしいなと感じました。それでますます一生懸命日本語を勉強しました。

 奥田 それで3年後に通訳をされたのですね。そしてその後は?

 柯 私にとっての最初の転機は日本語を勉強したことです。そして二番目の転機がやってきました。それは、南京市と名古屋市が姉妹都市になっていて、その関係で留学しないかと勧められたことです。

 奥田 何歳の時ですか。

 柯 1988年ですから24歳です。紆余曲折がありましたが、旅立ちました。初めての海外、初めての日本でした。南京から鑑真丸に乗って神戸に上陸し、新幹線で名古屋へ向かいました。

 奥田 日本の第一印象はどんなものでしたか。

 柯 バブル経済の真っ只中で、名古屋の中心街は不夜城でした。自分が最初に感じたのは、中国でいえば、唐の時代の長安がこんなふうじゃなかったのかなと。

 奥田 それから名古屋で大学・大学院と進まれるわけですね。

 柯 そうです。経済を勉強したくて愛知大学から名古屋大学の大学院に進んで勉強しました。ケインズの理論に出合ったときは感動しました。今の私の基礎はあの頃形づくられたと思います。それで名古屋で6年間勉強して、先生の紹介で日本長期信用銀行(長銀、現・新生銀行)の研究所に入り、その後、今の富士通総研に入ったわけです。98年の10月のことでした。それからずっとアジア経済を分析しています。これが私の履歴書です。

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