日本の明日は、この10年で決まる!――第45回

千人回峰(対談連載)

2010/10/15 00:00

小寺圭

小寺圭

ソニー・チャイナ・インク 元会長

構成・文/谷口一

 一読すれば、元気が出る本がある。ソニー・チャイナ・インクの元会長 小寺 圭さんが著した『ヘコむな、この10年が面白い!』がそれだ。氏の豊富な海外営業経験と人脈力・行動力・洞察力から築かれた独自の鋭い視点で、世界経済の生の動向と日本経済への提言がなされている。小寺さんをBCNのオフィスにお招きして、日本再生の道筋を示唆していただいた。【取材:2010年9月13日 BCN本社にて】

「日本の産業を守って育成しようとした“非関税障壁”が製品をガラパゴス化させたのではないか」と小寺さんは指摘する
 
 「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。

 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
 
<1000分の第45回>

※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
 

東アジア構想と日本

 奥田 『ヘコむな、この10年が面白い!』を、一気読みをさせていただきました。 
 

日本のメーカーが進むべき道を示唆してくれる一冊

 小寺 ありがとうございます。このままでは日本は確実に世界から軽んじられた国になります。そうならないためにはどうすればよいか、私の国内海外における経験から懸命に考え、書いてみました。

 奥田 リーマンショック以来、IT産業はほとんどの企業がダッチロール状態で、まだ、脱出したとはいえません。私どもは1981年から、国内のパソコン産業の成長を見てまいりました。ざっと30年見たところで、もうこれ以上、国内では伸びないだろうということを感じました。

 しかし、一転、目を国外に向ければ、すぐ隣に広大な中国、また韓国があります。企業が日本からどんどん出て行き、日中韓で経済が回り、技術・人材・資本が流動する。5年、10年、30年を見据え、そんな循環のお手伝いができればと、BCNもこの3月から本格的に中国に進出しました。

 そんな矢先に、『ヘコむな、この10年が面白い!』を読んで、ずんっと心に響きました。タイトルに込められた思いのたけを、今日は存分にお話しいただければと思います。

 小寺 東アジア構想は、私が中国へ行った2003年頃から語られてきましたが、当時は、何でもかんでも日本で考えて、労働賃金が安い中国で生産するというのが、日本企業の考えでしたね。

 しかし、この本の帯の推薦文を書いていただいたソニーの出井さんの考え方は「いや、もうそうじゃないんだ。中国の力っていうのは、単に安い労働力にあるんじゃなくて、エレクトロニクスでいったら、設計・商品企画の領域まで含んでいるんだ」と、だからもうボーダレスで考えなくてはダメだということですね。そういうところから、ソニーの中で東アジア戦略が策定されて、その中核にあるのが中国だったわけです。

 奥田 考え方の大きな転換ですから、すんなりとは…。

 小寺 確かに、すべてがすんなりといったわけではありません。いくつかの障害がありました。たとえば、日本の企業には膨大な組織があって、ものすごい数のエンジニアを抱えているわけです。そのなかの大部分がアナログエンジニアだったりするわけです。そうすると、どうしても物事の中心が日本になってしまうんですね。

 私が上海に行った2003年当時、日本では音楽のMP3プレーヤーはまだほとんど出ていなかった。ミニディスクなんかが中心でしたね。ところが中国では、電器店にいくと300種類くらいのMP3プレーヤーが並んでいるんですよ。どれを選んでいいかわからないくらいバラエティに富んでいる。

 奥田 当時日本ではMP3に関してはどんな状況だったんでしょう。

 小寺 コピーガードのことなんかがいろいろいわれて、そもそもMP3には消極的でしたね。ただ、ipodが出てきて、日本もしぶしぶそれに寄ってきたような状況でした。

 奥田 その時、日本のメーカーはどんな反応を示したのでしょうか。

 小寺 日本はブレーキをかけていたこともあるので、MP3の設計も製造も中国のほうが進んでいました。まず、日本はチップの開発が遅れていましたね。日本の開発者がもっているチップの情報っていうのは、もう古いんです。ですから、古いチップをベースに設計をしてしまうんです。それで、その設計したものを中国にもっていって、「これ、作ってくれ」と言うと、向こうの人が困ってしまうわけです。「こんな古いチップ、どうやって手に入れるんだろう」って。

 奥田 そんなことがあったんですか。

 小寺 さっき300種類のMP3プレーヤーっていいましたけど、これがほとんど同じチップを使っているわけです。ですからコストも断然安いし、性能も安定しているわけです。ところが、日本が設計するものは、古いチップでそもそも数が無いから探すのも大変だということに…。

 奥田 それじゃあ負けますね。

 小寺 負けます。今は日本でもMP3にシフトしてきています。しかし、これが携帯電話なると、まったく同じ構造なのです。
 

戦後の思想、非関税障壁

 奥田 日本人の多くは、日本の携帯電話が世界では売れていないという事実を知らないんですね。私どものようにIT関連の仕事をしている人間でも、日本の携帯電話はなぜ世界で売れていないんだろうと、不思議に思いますが…。

 小寺 まずはよくいわれているガラパゴス化ですけど、方式を選ぶときに日本独自のものを選んでしまったということですね。なぜそうしたかは諸説あると思いますが、私が察するところでは、1980年代のことですから、アメリカと方式を一緒にするとモトローラが上陸して、日本の携帯電話メーカーが全部やられてしまうだろうというような恐れが、政府や日本の業界にあったんだろうと思います。だから非関税障壁で、日本は独自のシステムでやっていけばメーカーが元気になると考えたのでしょう。

 奥田 保護できると。

 小寺 そうです。でも、この考えって言うのは戦後の思想ですよ。戦後の10年、20年の間は日本のあらゆる商品に非関税障壁があって、世界的にも有名だった。確かにそれで日本の企業が育ったという事実はあります。でもね、80年代になっても、日本のお役所がまだ成功体験に囚われていて、携帯電話においてもそういうような決定をしたのじゃないでしょうかね。

 奥田 それがボタンのかけ違いだと。

 小寺 そうです。そこからすべてが始まっているということです。ところがエレクトロニクスの世界ってどういうことかというと、さっきもチップの例をお話ししましたが、とにかく、開発のスピードとコスト・数量というのが密接に関係しているわけです。数量が爆発的に増えるとコストもドンと下がっていく。多分、そのことを日本の産業界も理解してなかったんじゃないですかね。

 奥田 理解してなかった。

 小寺 要するに、日本のマーケットをどう守るか、それしか考えていなかったと思います。

 奥田 そういうことですか。当時は日本の市場も元気だったですからね。

 小寺 元気があるし、携帯電話にしても、どれだけ伸びるかわからないくらいの勢いでしたから、みんなが一種の興奮状態にあったわけです。だから世界のマーケットがどうなのかなんて、誰も考えなかったですよ。でも、今だからいえることですけど、こういう商品というのは需要を世界規模で考えていかなくては絶対に無理なんです。これって資本主義の原則ですね。どこかに新しいテクノロジーが生まれて、爆発的に市場が拡大するというのは、今後もいろんな面であると思います。そういう時に世界規模でものを捉えることができる視点に立つことが重要なのです。

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