どんな仕事でも一生懸命やれば、それが生きる――第40回

千人回峰(対談連載)

2009/05/07 00:00

麻倉怜士

麻倉怜士

オーディオビジュアル評論家

オーディオビジュアル評論家の誕生

 麻倉 こんな感じで編集の仕事をやっていた時に、突然、雑誌『特選街』から原稿依頼がきたんですよ。知人を通してでしたけれど、新しいテレビについて評論してほしいというような依頼だったですね。

 奥田 プレジデント在籍中に?

 麻倉 そうです。ぼくは学生時代からオーディオが好きで、ビデオも1975年に出たベータマックスも持っていたから、そういう世界が好きなのは、周りのみんなが知っていたんです。それまで、バイト原稿はリクルートの出版物に書いたことはあったけど、技術的なものは初めてで、でも書いてみるとすごく楽しいんですよ。なぜかというと、いろいろな層の人に会えるから。

 『プレジデント』の記者として面談するのは経営者ですよね。ところが、技術の話で会うのは現場の人なんです。そうすると、同じ会社の上と下の両方のポジションの人に会うことになるので、その会社の現状なんかがすごくわかるんです。

 奥田 それはそうでしょうね。

 麻倉 『プレジデント』が本業ですけど、アルバイトで技術のことをいろいろ書いていくわけです。1980年代というのはオーディオビジュアルの業界で新しいものが次々と出てくるんですね。81年にレーザーディスク、82年にCD(コンパクトディスク)、85年に三菱電機の大画面テレビ、89年はシャープの液晶テレビというように画期的なものが出るんです。しかしまったく新しいカテゴリーの製品ですから、評論的なことを書ける人がいなかった。

 奥田 そういう時代だったんだ。

 麻倉 オーディオ評論家はいっぱいいたけど、ちょっと違うんですね。そこでぼくはビジュアルだけじゃない、オーディオだけじゃない、オーディオとビジュアルをくっつけてオーディオビジュアル評論家としたわけですよ。これは誰もいない。

感動は画面サイズに比例する

 麻倉 1975年にベータで76年にVHSでしょう、でもビデオっていうのはぜい弱なイメージですよね。それに最大の問題点は頭出しができないこと。それがディスクになって、頭出しができるようになった。見たい箇所がすぐ見られる、そうなってはじめて文化と言えるんです。だから、AVの文化はディスクが出てきた80年代に花開くんですね。

 奥田 なるほど、そんな変遷をたどってきたのですか。

 麻倉 そういうなかで83年11月に『Hivi』という専門誌が創刊されるんです。新しい文化にはフロントが必要なわけですけど、雑誌ではこの『Hivi』がフロントになって、評論家ではぼくがフロントになったというわけです。まあ一人しかいなかったわけですから。

 奥田 まったくのフロンティアだ。

 麻倉 AVの最初のブレークは、85年に三菱電機が出した大画面テレビなんです。

 奥田 それは何インチ?

 麻倉 37インチですね。今にすれば小さいですけど、当時はまさに大画面で、現在でいえば150インチってイメージですね。100万円と高額でしたけど、かなり売れました。画面の大きさというものは人間の感動と密接な関係ある。感動は画面の大きさに比例するということですね。

 奥田 たしかにそれは言えますね。

 麻倉 大画面を実現して、次に手をつけるべきは、大画面にバランスした高画質と、大画面・高画質にバランスした高音質ということになるんです。この当時にドルビーサラウンドというのが出てきて、音が良いだけではなく立体的な音場も必要ということになってくるわけです。この4か条の概念を85年あたりに発見したんです。これはまったく今も変わっていません。個々の発展はあるけれど、基本的な概念は一緒です。

 奥田 この時はもうフリーになっていたんですか。

 麻倉 フリーになったのは1991年です。プレジデントに籍を置きながらでしたから、結構大変でしたね。だから当時、時間がなくて、歩きながら原稿を書いてました。ボードに原稿用紙を挟んでね。青山通りは片側4車線ありましたから真ん中の島にいくまでにペラ1枚、200字を書いてしまう。

 奥田 それはすごいけど、車にぶつかったりしないのかな(笑)。

 麻倉 一応、青信号ですから(笑)。島でちょっと休んで、島からまた向こうに渡るまでに200字と。

 奥田 超人的ですね。

 麻倉 でも、1990年ごろにはAVの仕事が急増して、アップアップになってしまって、91年にプレジデントを辞めてフリーになったわけです。

 AVの成長と共に麻倉怜士の名も世に出て行くわけです。80年代が怒涛のように過ぎていって、90年代にフリーになって、フリーになってからもAVの市場は伸びましたね。

 奥田 デジタルを意識され始めたのはいつ頃ですか。

 麻倉 1996年のDVDが、AVにおけるデジタルの最初でしょうね。

 奥田 PCが入ってくるのは?

 麻倉 PCはWindows 95の1995年にぐわっときましたね。

 奥田 それは麻倉さんの頭の中にも入ってきましたか。

 麻倉 そうですね。パソコンが入ってきてかなりAVの市場が食われているなという感じがありましたね。雑誌の『特選街』もそうなんです。ずっとAVに関して書いていたんですけど、あるときからテーマとしてパソコンがどんどん出てくるんですね。

 AVにとっては、95年から2000年までは停滞期です。ここでITは伸びてますけどね。それで2000年代になってDVDが本格的になって、ハイビジョンになって、2006年のブルーレイにつながっていくわけですね。AVにおけるデジタル革命の時代です。

とにかく書くことが日常生活、疲れるまで書く

 奥田 麻倉さんが実際にPCを持ち歩いて使われだしたのはいつ頃なんですか。

 麻倉 PCを本当に仕事に使い始めたのは2001年からです。

 奥田 えっ、そう? 意外と遅いですね。

 麻倉 それまでずっと文章はワープロの東芝「ルポ」で書いていました。ルポユーザーとしては結構古いんです。10台は使いましたね。いつかはパソコンで仕事がしたいとずっと思っていました。だけど目の前に山ほど仕事があって、システムを変える時間がなかったんですね。PCを使い始めたのは、ヨーロッパに取材に行って、ホテルでルポが動かなくなってしまって、たまたま持っていたシンクパッドで書いたのがきっかけです。

 奥田 麻倉さんの毎日のデジタルとのつき合いはどんな様子ですか。

 麻倉 それはすごく長い時間ですね。朝起きてすぐパソコンを立ち上げますから。

 奥田 何を見るんですか。

 麻倉 まずメールですね。インターネットは見ません。ぼくにとってパソコンは書くだけです。日常的にはまず、エアチェックとブルーレイディスクを見るのが基本なんです。一日に30番組くらい録って、そのなかでいいのだけを残しておくという作業があるんです。まあ、それを見ながら書くんですね。ぼくの書き方というのは、疲れるまで書こうというのがあるんです。とにかく書くのが生活。起床したらすぐに2、3行書いて、顔を洗ってまた書く。そんな日常ですね。

 奥田 うちの編集部員にもぜひ聞かせたい話がずいぶんありました。今日は本当にありがとうございました。

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Profile

麻倉怜士

(あさくら れいじ)  1950年生まれ。オーディオビジュアル評論家。日本画質学会副学会長。津田塾大学講師。1991年『プレジデント』副編集長からオーディオビジュアル評論家に。デジタルAVメディアの将来動向に関しての造詣が深い。またエアチェックマニアとしても有名で、そのコレクションは追随を許さない。『オーディオの作法』(ソフトバンク新書)など著書多数。