夫人からプレゼントされた8ビットマイコンが生涯を決めた――第37回
襟川陽一
コーエー ファウンダー 取締役 最高顧問
襟川 誕生日に家内から8ビットのマイコンをプレゼントされたのがきっかけでした。当時はパソコンじゃなくてマイコンって言っていましたが。これがコンピュータとの出会いです。シャープの「MZ-80C」でした。それまではまったくコンピュータとは縁のない世界にいましたが、これがきっかけで、コンピュータマニアとしてプログラムにどっぷりとはまってしまって…。結構高いマイコンを買ってもらいましたから、自分の会社で使うビジネスソフトなんかも作ったりしました。
奥田 ビジネスソフトというと。
襟川 在庫管理や販売管理のソフトです。OA化という時代でしたから。それはそれで会社でもマイコンがおおいに役立ったわけです。これはまあ昼間の顔です。夜はマイコンが空いていますから、好きなゲーム作りで遊んでいました。いまだにその時のプログラミングの楽しさを忘れていませんで、あそこが原点だなと思います。やっぱり面白いことを一生懸命にやるという、これがずっとやってきた原動力ですね。
奥田 徹夜なんかもされましたか。
襟川 徹夜、徹夜でゲームを作って、昼間は営業車で染料薬品の注文をいただいたり、配達に行ったり、危ないですよね。若いから回復力もあったのでしょうが。
奥田 ゲームが好きだったのですか、それともコンピュータが好きだったのですか。
襟川 コンピュータですね。
奥田 コンピュータのどこがそんなに好きだったのですか。
襟川 自分がプログラムを組んで思い通りに動かしていけるというところがすごく面白くて。そういうことってそれまでやったことがなかったですから。
奥田 奥様にマイコンをプレゼントされたのはおいくつの時の誕生日でした。
襟川 30歳の時です。
奥田 30歳というとゲームライターとしては、今の感覚でいえば、まあ中年ですよね。
襟川 そうですね。しかし、このマイコンとの出会いが、私の人生をまったく大きく変えたわけです。
襟川 プログラミングの初歩中の初歩の「数当てゲーム」です。それを自分なりに複雑に作り変えていく、それが面白いのですね。結構、熱中しました。そうやっているうちにだんだんプログラミングの原理がわかってきて、あてがい扶持のゲームじゃない、自分の思考や好みを満足させるゲームが作りたくなってくるのですね。それは自分自身で作るしかない。
奥田 なるほどね。で、販売を始められたのは。
襟川 本格的に販売したゲームは1981年に創った『川中島の合戦』です。通信販売で売り始めました。
奥田 その構想はいつ頃からあったのですか。
襟川 1980年にマイコンをプレゼントされた時からですね。そこからすぐにゲームの世界に入りましたから。
奥田 なぜ、最初のゲームが「川中島」だったのでしょう。
襟川 もう、単純に歴史が好きだったからです。生まれ故郷の足利は足利氏ゆかりの土地で神社仏閣も多くて、まあ、そういう歴史に囲まれて育ったということ、歴史が身近だったということが影響していますね。
奥田 歴史を好きだというのは、そのどんなところに惹かれるのですか。
襟川 もちろん歴史が身近にあったということがありますが、最初は小説から入って、ずいぶん本を読みました。それでまた歴史がもっともっと好きになったということですね。司馬遼太郎とか、三国志や徳川家康など本当によく読みました。
奥田 それらが土台となってゲームの創作に入っていかれるのですね。
襟川 小説を受け手として読んでいるのも、それはそれでいいのですけれど、ゲームソフトは自己参加型なメディアですから、自分が歴史の中に入っていったり、歴史を変えてみたり、歴史と関わってみたりということができます。歴史の中にそのインタラクティブ性を入れれば、もっとゲームが面白くなるんじゃないかと、それでゲームとして面白い素材である信玄と謙信の果てしない戦いを、第一作に選んだということです。
ですからゲーム作者としての原点は、足利という歴史あふれる町に育ったということと、歴史小説が非常に好きだったということですね。
襟川 そうですね。『川中島の合戦』のころは自分で楽しむためにゲームを作って、それがすごく面白かったので、ひょっとしたら自分と同じような年代でアクションゲームでは物足りなくて、知的好奇心を満足させるような思考ゲームを好まれる方がいるのではないかな、と。パソコンの市場もまったくわからない、地方の1ユーザーだったのですが、そんな風に勝手に思っていたのです。
奥田 その時のお住まいはどちらだったのですか。
襟川 まだ足利です。まわりはぐるっと畑で、まったくの田舎でした。
奥田 じゃあそこが『川中島の合戦』の生誕地だと。
襟川 そうです。それでもしかしたら売れるんじゃないかという思いから『月刊マイコン』という雑誌に白黒半ページの広告を出してみました。
奥田 ビジネスソフトというと。
襟川 在庫管理や販売管理のソフトです。OA化という時代でしたから。それはそれで会社でもマイコンがおおいに役立ったわけです。これはまあ昼間の顔です。夜はマイコンが空いていますから、好きなゲーム作りで遊んでいました。いまだにその時のプログラミングの楽しさを忘れていませんで、あそこが原点だなと思います。やっぱり面白いことを一生懸命にやるという、これがずっとやってきた原動力ですね。
奥田 徹夜なんかもされましたか。
襟川 徹夜、徹夜でゲームを作って、昼間は営業車で染料薬品の注文をいただいたり、配達に行ったり、危ないですよね。若いから回復力もあったのでしょうが。
奥田 ゲームが好きだったのですか、それともコンピュータが好きだったのですか。
襟川 コンピュータですね。
奥田 コンピュータのどこがそんなに好きだったのですか。
襟川 自分がプログラムを組んで思い通りに動かしていけるというところがすごく面白くて。そういうことってそれまでやったことがなかったですから。
奥田 奥様にマイコンをプレゼントされたのはおいくつの時の誕生日でした。
襟川 30歳の時です。
奥田 30歳というとゲームライターとしては、今の感覚でいえば、まあ中年ですよね。
襟川 そうですね。しかし、このマイコンとの出会いが、私の人生をまったく大きく変えたわけです。
『川中島の合戦』で本格的に販売を開始
奥田 最初にお作りになったゲームはどんな作品だったのでしょう。襟川 プログラミングの初歩中の初歩の「数当てゲーム」です。それを自分なりに複雑に作り変えていく、それが面白いのですね。結構、熱中しました。そうやっているうちにだんだんプログラミングの原理がわかってきて、あてがい扶持のゲームじゃない、自分の思考や好みを満足させるゲームが作りたくなってくるのですね。それは自分自身で作るしかない。
奥田 なるほどね。で、販売を始められたのは。
襟川 本格的に販売したゲームは1981年に創った『川中島の合戦』です。通信販売で売り始めました。
奥田 その構想はいつ頃からあったのですか。
襟川 1980年にマイコンをプレゼントされた時からですね。そこからすぐにゲームの世界に入りましたから。
奥田 なぜ、最初のゲームが「川中島」だったのでしょう。
襟川 もう、単純に歴史が好きだったからです。生まれ故郷の足利は足利氏ゆかりの土地で神社仏閣も多くて、まあ、そういう歴史に囲まれて育ったということ、歴史が身近だったということが影響していますね。
奥田 歴史を好きだというのは、そのどんなところに惹かれるのですか。
襟川 もちろん歴史が身近にあったということがありますが、最初は小説から入って、ずいぶん本を読みました。それでまた歴史がもっともっと好きになったということですね。司馬遼太郎とか、三国志や徳川家康など本当によく読みました。
奥田 それらが土台となってゲームの創作に入っていかれるのですね。
襟川 小説を受け手として読んでいるのも、それはそれでいいのですけれど、ゲームソフトは自己参加型なメディアですから、自分が歴史の中に入っていったり、歴史を変えてみたり、歴史と関わってみたりということができます。歴史の中にそのインタラクティブ性を入れれば、もっとゲームが面白くなるんじゃないかと、それでゲームとして面白い素材である信玄と謙信の果てしない戦いを、第一作に選んだということです。
ですからゲーム作者としての原点は、足利という歴史あふれる町に育ったということと、歴史小説が非常に好きだったということですね。
まさか、こんなに売れるとは…
奥田 当時の創作活動は売るということではなく、やはり自分が楽しむという要素が強かったわけですか。襟川 そうですね。『川中島の合戦』のころは自分で楽しむためにゲームを作って、それがすごく面白かったので、ひょっとしたら自分と同じような年代でアクションゲームでは物足りなくて、知的好奇心を満足させるような思考ゲームを好まれる方がいるのではないかな、と。パソコンの市場もまったくわからない、地方の1ユーザーだったのですが、そんな風に勝手に思っていたのです。
奥田 その時のお住まいはどちらだったのですか。
襟川 まだ足利です。まわりはぐるっと畑で、まったくの田舎でした。
奥田 じゃあそこが『川中島の合戦』の生誕地だと。
襟川 そうです。それでもしかしたら売れるんじゃないかという思いから『月刊マイコン』という雑誌に白黒半ページの広告を出してみました。