パソコンとテレビが融合する時代を見据える――第35回
細野昭雄
アイ・オー・データ機器 代表取締役社長
金沢に本社を置き続ける理由
奥田 ところで、やはり昔のこともうかがっておきたいのですが、創業のころから金沢をベースに事業をやっていこうと思っていたのですか。細野 そうですね。金沢は生まれ故郷ということもあるのですが、工業高校卒業後、就職したのが石川県にあるウノケ電子工業(現・PFU)という会社で、そこがコンピュータとの最初の接点です。その後、ウノケ電子の創業者である竹内繁さんが金沢工業大学に教授として招聘されたため、私もそこに助手としてついていったわけです。ここで、コンピュータ開発プロジェクトに先生方と一緒に携わりました。つまり、ウノケ電子と金沢工業大学での経験が、いまの下地になっているんですね。
金沢工業大学を辞める少し前、DEC(ディジタル・イクイップメント・コーポレーション)のPDP-8や日立製作所のHITAC10といった国産ミニコンが出はじめました。すると大学の研究室で、そのミニコンに周辺機器をつなげるという大学発のベンチャーができてしまったのです。当時、日立は全国の大学にHITAC10を納入していましたが、そこでミニコンに周辺機器、たとえばプリンタやモニターなどを接続するニーズが出てきたため、日立やDECから続々と大学に仕事が持ち込まれました。1970年ごろの話です。大手メーカーは、ミニコン本体は作っていても周辺機器は作っていないわけですから、このとき、これはいけると思いましたね。
そこで竹内さんは、再度ベンチャー企業を立ち上げ、小松市にバンテック・データ・サイエンス(現・NJKテクノ・システム)という会社を作ります。そこにも私はついて行って、1975年まで在籍した後に独立したのです。
奥田 創業当時は、どのような仕事が中心でしたか。
細野 石川、福井には紡績工場が多いのですが、ミニコンで情報を集約して、織機の特性を分析するという仕事がありました。それまでは、織機が500台以上並ぶ工場で、機械にトラブルが発生するとセンサーによってそれを知らせ、工員が手作業でそれを修復するという形をとっていました。ランプがつくと、人間がその織機のところに行って、ひっかかった糸を直して再スタートさせていたわけです。それをミニコンで一括して情報管理すれば、手作業ではわからないトラブルの傾向がつかめます。これにより、稼働率は5~10%上がりました。
もうひとつは、パンチカードによる柄出しのシステムです。ミニコンとテレビをつなげることによって、使う糸の色を1本1本分けることができますから、以前よりもはるかに作業の効率化・省力化ができ、修正も容易になりました。
創業して5年ほどは、こうしたミニコンをベースにしたシステム開発の仕事が中心で、周辺機器とは関係のないところにいましたね。
奥田 具体的に周辺機器の仕事に携わったのは、どのあたりからですか。
奥田 当時、使っていたミニコンはFACOMのUシリーズでした。その共通バスに接続するテレビコントローラーが必要なので、それは自作していたのですが、そのついでにミニコン用のフル実装メモリを作ってしまいました。当時はメモリをメーカーから買うと非常に高価で、原価では20万円程度しかしないものが、200万円にもなってしまうため、コストを削減するために自作しました。ミニコンメーカーの営業担当に「メモリはいらないから」というと、びっくりしていましたよ(笑)。振り返ってみると、これが周辺機器分野に進出するきっかけだったのだと思います。
注7)FACOMのUシリーズ:富士通が産業用コンピュータとしての制御機能および拡張性に重点をおいて開発した多目的制御用16ビットミニコン。
奥田 ところで、「アイ・オー・データ機器」という社名は、創業当初から変わりませんね。
細野 そうですね。「アイ・オー・データ機器」の「アイ」はInputのI、「オー」はOutputのOからとったもので、「データの入出力関連に特化して、その道でのプロになっていきたい」という思いを社名に込めました。
金沢工業大学にいた頃、SORD(現:東芝パソコンシステム)の椎名堯慶さんが、ミニコンライクなパソコンを作り、飛ぶ鳥を落とさんばかりの勢いでしたが、私には椎名さんのようなパワーも技術力もありませんでしたし、CPUはインテルががっちりと押さえていたので、コンピュータ本体を作ることはできないと思っていて、当初から周辺機器に特化したいと考えてはいました。
注8)椎名堯慶さん:コンピュータ関連の開発・製造・販売を手掛けていたSORD(1970年創業)の創業者。
奥田 SORDが上り調子のときにそう考えたということは、先見の明がありますね。