体が動くうちにリタイアし、次のことにチャレンジしたい――第31回
東島 義澄
日本システム開発 名誉会長
2008年10月に日本システム開発の名誉会長となった東島義澄さん。私が東島さんを知ったのは1982年。当社BCNが新大塚に社員数人で事務所を構え、創業社長である東島さんが一般向けに開発したソフトウェアを販売し始めた四半世紀も前のことである。本当に久しぶりにお会いした東島さんに、その近況と第一線を退いた心境をうかがった。【取材:2008年11月6日、BCN本社にて】
「創業37周年ということになりますが、歴史が長いばかりで
あまり会社を発展させることなく…」と、謙遜の表情で語る東島さん
あまり会社を発展させることなく…」と、謙遜の表情で語る東島さん
「千人回峰」は、比叡山の峰々を千日かけて歩き回り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借しました。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れることで悟りを開きたいと願い、この連載を始めました。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
株式会社BCN 社長 奥田喜久男
<1000分の第31回>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
37年間、地道にやってきた
奥田 東島さんとお話しするのはいつ以来かと思い出そうとしたのですが、どうも記憶がはっきりしません(笑)。たぶん、Windows95が出る前のような気がするのですが…。東島 そうですね。もうだいぶ前になりますね。
奥田 御社の創業はいつでした?
東島 1971年の5月です。ですから創業37周年ということになりますが、歴史が長いばかりであまり会社を発展させることなく(笑)、昨年9月に70歳になり、いよいよ引退ということですね。
奥田 いやいや、変動が激しいIT業界にあって、歴史が長いというのは立派なことですよ。
東島 たしかに同じ時期に創業した同業他社は、大きく伸びて上場企業に成長した会社もあれば、その反対に潰れたり合併した会社もずいぶんありました。もちろん苦労はありましたが、なんとかやってこられたというところでしょうか。
奥田 創業メンバーは何人でしたか。
東島 7人の技術者が集まって始めました。その頃はもちろんパソコンはなく、大型機が中心で、ミニコンが登場し始めた時代です。ソフト製作を外注するということもまだ少ない時代でしたが、私たちが最初に携わったのが、メーカー系ソフトウェアの受託開発です。
1981-82年頃、最初に取り扱ったパッケージソフトは、IBMのミニコン用に開発された三次元の配管ソフト、つまりCADソフトです。他社開発によるものでしたが、非常に性能がよかった。ただし当時は1システムで5000万円以上もしましたから、結局、2システムしか売れませんでしたね。その後パソコンが普及し、主な販売先が法人から一般消費者に変わっていくなかで、価格も安くなってきました。
奥田 パソコン時代になって、パッケージソフトの販路もBtoBからBtoCになってきたということですね。
東島 そういうことです。そこでパソコン向けのソフトとして、1983年に「MyCalc(マイカルク)」というデータベースソフトをリリースしました。プロトタイプは8ビット機が出た時期に開発を進めていたのですが、発売したのは16ビット機が出てからです。16ビットになってようやく使える動きになったんですね。
外見は表計算で中身はデータベースというものだったのですが、一般向けにはまだ難しく、使い勝手がいまひとつだったようです。販売目標は1万本でしたが、実績は数千本というところです。最終的には、マイクロソフトのExcelが出た時点で撤退しました。