「豊かさ」「ゆとり」「やさしさ」を排し、「うれしい」を求める――第30回
富士通 顧問、トヨタIT開発センター 代表取締役会長 鳴戸道郎
M&A相手に自社の文化を押しつけてはならない
奥田 それはすごいですね。ところで、企画畑が長かったそうですが、具体的にはどんな仕事をされていたのですか。鳴戸 経営分析もしましたし、M&Aのようなことも手がけました。たとえば、資本参加していた神戸工業(旧・川西機械製作所)は真空管製造などに強みを持つ会社で、富士通にはいない機械系の優秀な技術者がたくさんいました。そこで私は社長に合併を進言し、1年がかりでそれを成し遂げました。1968年のことです。
奥田 M&Aというのはまだめずらしい時代だと思いますが、合併にあたって抵抗はありませんでしたか。
鳴戸 確かにありました。なぜかというと、富士通が神戸工業を同化させようとしたからです。つまり富士通の精神や文化を、他人に強要してしまったわけですね。これはよいことではありません。合併相手はそのままの形で特徴を活かし、連結で利益を最大化するほうがはるかに効率的です。ですから、その後に買収したイギリスのICLのケースでは、いっさい同化させませんでした。
奥田 そのICL買収のいきさつをうかがいたいですね。
鳴戸 最初に関心を持ったのは、1968年のことです。この年、私はヨーロッパ視察旅行に出かけたのですが、その目的は三つありました。一つはフランス五月革命後の議会選挙でド・ゴールがどうなるかを見ること、二つ目はECの域内関税撤廃(68年7月1日実施)でヨーロッパ諸国の様子がどう変わるかを見ること、そして三つ目が、この年、国策によって3社が合併してできたICL(International Computer Limited)の視察です。ICLでは1900シリーズという巨大なマシンをリリースしており、とても富士通ではこんなものをつくれないと思いましたね。当時のICLはIBMに次ぐ会社ですから、「すごいな」と思うばかりでしたが、関心はずっと持ち続けていました。
ところが、その後、富士通の業績がよくなると、チェースマンハッタン(現・JPモルガン・チェース)から、ICLの株を持たないかという話が舞い込んできました。社長の小林大祐さんは「こんな会社を買いたいな」と言っていましたが、わずかな比率であっても買う余裕はない。でも、このとき私は、いつか買ってやろうと思ったのです。
富士通では1974年に発表したMシリーズが好調なものの、国内需要はそれほど期待できません。そこで、コストダウンのためにアムダールやシーメンスに売り込むとともに、ICLとも提携を結びます。これが1980年のことですから、私が視察に行ってからすでに12年が経っています。そして買収したのは、その10年後の1990年です。ずいぶん時間をかけましたが、自分の部屋となった会長室からテムズ川を見下ろしたときは感無量でしたね。
奥田 そんな大きな会社を買収することについて、社内での反対はなかったのですか。
鳴戸 当時、富士通には32人の役員がいたのですが、社長の山本卓眞さんを除いて全員反対です。買収額は1800億円でしたが、イギリスの国策会社であり、日本でいうなら三菱重工を買収するようなものですから、大変な批判を浴びましたね。俺たちの稼ぎをそんなところに使うなと。
奥田 鳴戸さんのことは昔から、先を読む力と決断力のある人だと思っていました。
鳴戸 ええ、私自身、先を読みますし、すぐ決断するほうだと思っています。だからすぐに実行して、いつも物議を醸すんだけど(笑)。
日本企業が欧米の企業を経営するというのは、やはりなかなか難しいものです。アメリカのアムダールもそうですが、親会社である富士通に対して、金と技術を引き出そうとするくせに「口は出すな」と言う。その点でトヨタは、一番うまくやっていると思いますね。その理由は、自分たちのことを「日本企業」ではなく「三河のトヨタ」だと思っているからです。