“change”こそが原動力だ――第29回

千人回峰(対談連載)

2008/10/27 00:00

古河建純

古河建純

ニフティ 常任顧問

お客を前にしても信念を譲らないビル・ゲイツ

 奥田 実際にビル・ゲイツに接して、どんなことを感じましたか。

 古河 ビル・ゲイツとはずいぶん長いつき合いですが、いくつか印象的なことがありました。さきほど、パソコンとワープロを同じ事業部で開発したと言いましたが、当時の事業部長はOASYSの開発者である神田泰典さんで、私は事業部長代理を務めていました。そして、ビル・ゲイツは日本に来ると、必ず富士通を表敬訪問していたのですが、こともあろうに、その神田さんの前で「ワープロは2年以内になくなる」と断言したのです。

 神田さんは、「絶対にそんなことはない。ワープロのほうがずっと使いやすいじゃないか」と応酬します。結局、その後4年ほどでワープロから撤退することになり、タイムラグはあったものの、ビル・ゲイツのほうが正しいことが立証されました。ビル・ゲイツという人物は不器用なセールスマンみたいなところもありますが、お客を前にしても決して自説を曲げない一面があります。技術屋としての信念は譲らないんですね。

 奥田 古河さんは、メインフレームからパソコンへ、そしてニフティというまったく異なるステージに移られています。それぞれ先鋭的な場だと思いますが、どのような事業観をもって臨まれたのでしょうか。

 古河 パソコンのときは、正直なところ、NECのPC98にこてんぱんにやられていました。そして、日本のパソコンはIBM互換ではありませんでした。富士通もIBM互換ではないFM RやTOWNSをつくったりしましたが、国内ではPC98の一人勝ちだったのです。

 そこで、アメリカでダイナブックを成功させていた東芝の溝口哲也さん、日本IBMの丸山力さん、そして富士通の私と3人で、1か月に1回、幹事持ち回りで飲んでいたんです。どうやったらPC98に勝てるかと考えるために。そしてあるとき、IBMの丸山さんが「古河さん、できた!」と言ってきました。DOS-Vです。そこで、3社ともこれでいこう、ということになった経緯があります。だから、3人で飲んでいたのは無駄じゃなかったんですね。おかげでDOS-Vを使わせてもらうことができましたし(笑)。

 その後、私はミドルウェアといわれるメインフレームのソフトの部門に戻り、さらにネットワークやアプリケーションのパッケージまで担当します。ネットワークサービス本部は、ニフティに対する富士通側の窓口ですから、ニフティに来たことについては、それほど違和感はありませんでした。

 奥田 当初ニフティは、日商岩井(現・双日)と富士通が50%ずつの出資でしたね。

 古河 ええ、23年前のことです。ところが50%ずつというのは双方がなかなか経営について本気にならない数字で、マネジメントがむずかしかったのです。そこで、日商岩井の社業が思わしくなかった1999年に残りの50%を買い取って、富士通の100%子会社にしました。私がネットワークサービス本部長をしていたときの話ですが、富士通でもInfoWebというインターネット事業を行なっており、ニフティにもNIFTY-serveがある。そこで、InfoWebとNIFTY-serveを99年末に統合し、現在の@niftyとしたわけです。パソコン通信からインターネットへの転換の時期には、いろいろ苦労がありましたね。

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