「プロ」にこだわり抜いて――第27回

千人回峰(対談連載)

2008/08/25 00:00

鈴木勝喜

鈴木勝喜

プロシップ 代表取締役会長

合気道の縁と仕事の縁

 奥田 その磯貝翁のご次男が、プロシップの前身である日本エム・アイ・エスの創業者のひとり、磯貝明さんであるわけですね。

 鈴木 そうです。日本エム・アイ・エスの創業者は、日本経営協会でコンサルタントを務めていた野中貞亮さん、その部下だった磯貝明さん、日本能率協会のコンサルタントだった岡沢幾三さんの3人です。創業は1969年で、最初の7、8年はイトーヨーカ堂のシステム構築の仕事をメインに行っていました。

 奥田 鈴木さんが日本エム・アイ・エスに参画されるのは1976年ですが、大学卒業後に入社したのは工作機械メーカーのミヤノですね。

 鈴木 ええ、ミヤノには10年間在籍し、人事から製造、輸出、営業まで一通り経験しましたが、うち3年間はアメリカのシカゴに駐在していました。「誰か英語ができるやつはいないか」といわれて手を挙げたのですが、仕事の内容は、エンジニアとしてカナダからブラジルまでの顧客をカバーするというものでした。私は法学部出身ですから技術系の知識はありません。そこで、アメリカに向かう前の1年間、長野にある工場で電気系統からメカ、オイルに至るまで、すべて勉強してから行ったわけです。

 シカゴでは、私の住むアパートの数ブロック先に「ミッドウエスト合気道クラブ」という道場を偶然見つけまして、顔を出してみたら、そこの師範が道場の運営を手伝ってくれないかというのです。もちろんそこでお手伝いするのですが、半年ほどで師範が病気で突然亡くなってしまいます。そこで、東京の植芝先生に代わりの師範を派遣してくれるよう連絡すると、しばらくの間、君が面倒見てくれと(笑)。道場に来る人は実にさまざまで、ガンベルトをさげたFBIの連中もいれば、シカゴ大学の教授や学生、なかには競馬の騎手もいました。これはなかなか得難い経験でしたね。

 奥田 アメリカでの武勇伝がいろいろとおありのようですが、それは機会を改めてじっくり伺うとして(笑)、どうしてミヤノを辞めて日本エム・アイ・エスに移られたのですか。

 鈴木印之宮のお祭りの場で、磯貝明さんから誘われたのがきっかけですね。まさに、合気道を通じた「縁」だと思います。

 日本エム・アイ・エスというのは、日本マネジメント・インフォメーション・システムの略なのですが、創業したのは、コンピュータシステムを使って経営の合理化をしようというコンセプトがアメリカからちょうど伝わってきた頃です。そこで、面白そうなビジネスだと思い、転身を図ったわけです。

「会計システムではありきたりだ」

 奥田 最初はイトーヨーカ堂のシステム構築というお話でしたが、現在のパッケージソフトの原型は、どのあたりで登場するのでしょう。

 鈴木 私はアメリカでの駐在経験があるため、向こうではペイロール(給与計算)システムがパッケージシステムの形で利用されているということくらいは知っていました。そこで、イトーヨーカ堂のシステム開発の中心だった岡沢さんにそのことを話すと、たった3日間で基本システムをつくってしまいました。そうして、1978年に販売を開始したのが、会計システムパッケージ「ASPAC-I」です。第1号ユーザーは、西八王子に本社があった忠実屋です。足しげく営業に通ったことを思い出しますね。

 しかし「会計システムではありきたりだ。もっとユニークなものを世に出したい」という話になり、ブレーンストーミングを繰り返しているうちに出てきたのが「固定資産」というキーワードでした。ご存じのように、固定資産にはいやらしいロジックがありますからね。

 当時、日本には固定資産管理ソフトはありませんでした。いまでは2500社に導入していただいているベストセラーになりましたが、その固定資産管理システムのトップバッターが1980年に販売を開始した「ASPAC-I」です。とはいえ、最初は苦戦し、年に3、4本しか売れませんでした。

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