国の安全のため、日本は独自のセキュリティソフト持つべきだ――第25回
成田明彦
セキュアブレイン 社長
ハードの限界感じているとき、シマンテックから招きが
奥田 当時のアップルは5年で卒業、というのが常態化していたと記憶していますが、成田さんも5年で卒業されたわけですね。シマンテックにはどんな経緯で?成田 アップルに入って3年目ですから92年でしたかね、これもヘッドハンターから電話をもらったのがきっかけです。ただこの時は、シマンテックがヨーロッパ進出のほうを先行させるということで、日本進出は1年延期ということになったんです。そして1年後、また電話をもらったんですが、この頃には私の意識は揺れていました。
というのも、社会に出てからはハードウェアの営業一本できたけれど、その限界を感じだしていたからです。ハードの場合、大量に売らないと利益は出せません。とくにアップルの場合は、個人ユーザー中心で、普及率が上がればいずれ伸びが鈍化してくることは見えていました。それを見越して企業向け販売ルートも新たに開拓し、2年ほどは伸びたものの伸び率は鈍化していました。
対して、使い勝手を向上させるソフトの存在価値はどんどん高まっていくだろうと考えるようになっていたんです。そんな時、シマンテックから声がかかったものですから、乗ることにしたんです。
奥田 シマンテックに移ったのが1994年ですか。49歳だったんですね。あれっ!? アルゴに移られたのが39歳じゃありませんか。
成田 いわれてみればその通りですね。そういえば、59歳の時も大きな決断をしていますよ。
奥田 起業家としての独立ですね。その経緯は後で聞くとして、シマンテックは順調に立ち上がったんですか?
成田 3か月間は私一人でやっていました。ジェトロが溜池に海外企業向けにビジネスサポートセンターを用意しており、タダで貸してくれるというので、ここに居を構えました。
奥田 日本企業の海外進出の手助けをしてきたジェトロに対し、海外、とくにアメリカが注文を付けた結果、ジェトロは海外企業の日本進出の手助けもするようになったという頃ですね。
成田 そうです。94年頃のシマンテックはノートンユーティリティとか開発言語であるノートンC++が主力製品で、セキュリティ製品の比率は10%に満たなかったです。ただ私は、セキュリティ製品はこれから伸びると確信し、積極的に力を入れました。マスコミから取材を受けたときはセキュリティ対策の重要性を強調して、講演でも同じような話をしていました。
59歳で起業、セキュアブレイン設立
奥田 シマンテックを世界一のセキュリティメーカーに育てるという面で、成田さんが果たした役割は大きかったと聞いてますが、59歳で自分の会社を作ろうと思われた動機は何だったんですか。成田 一つはシマンテックの体質変化です。私が会長になったのは2003年ですが、この頃からグローバリゼーションの名の下に、アメリカですべてを決めるという傾向が強まってきました。日本には日本の特殊性があり、それに即した対策を講じるべきなんですが、予算を付けてくれなくなった。
そんなこともあって、そろそろ引退の潮時かなと思っているとき、日本人ながら米国に在住し、開発の責任者を務めていた人から、「フィッシングソフトでこんなアイデア持ってるんだけど、成田さんが会社を起こしてくれれば、一緒にやりたい」という話が飛び込んできたんです。
一瞬ビックリしました。と同時に、これは積年の思いを実現するチャンスかなとも思いました。それというのも、セキュリティソフトは国の命運を左右するという思いをずっと抱いてきたからなんです。日米関係が友好的なうちは技術は入ってくるかもしれないけれど、いったん両国の関係がこじれたら技術の進展がストップし、日本は丸裸にされてしまう危険性がある。日本独自の技術を持たなければならない、そうした思いはシマンテックにいる間にもどんどん強まっていたんです。
現にシマンテックも、当時の最新の暗号化ソフトについては、日本にはついに出荷しませんでした。国防省の意向があったんでしょうが、日米関係が怪しくなれば、こうしたケースは激増していくでしょう。
日本独自のセキュリティソフトを開発したい、そんな思いもあって59歳での起業に踏み切ったんです。