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  • 元ウチダエスコ社長、現・社会福祉法人「松の実会」理事 関昌

機械だけでなく人間もアフターサポート――第23回

千人回峰(対談連載)

2008/06/09 00:00

関昌

関昌

社会福祉法人「松の実会」 理事

ソフト開発も行うため合併、ウチダエスコに

 奥田 ウチダエスコに社名変更したのが、1987年でしたか。

 関 先ほど申し上げたように、1985年頃から、パソコンにもっと力を入れないといずれ行き詰まるなと感じて、方向転換をし始めていました。それにつれてソフトが分かる技術者を増やさなければいけないとも考えていました。

 そんな話を内田洋行の久田仁取締役にしたら、内田コンピュータエンジニアリングを引き取ってくれないかということになったんです。この会社は、内田洋行向けのソフトを開発していた会社です。86年2月に同社の中村正二社長、内田洋行の久田仁取締役を交えて会談した結果、合併で合意しました。

 実際の合併は87年1月で、社名はウチダエスコとしました。

 奥田 その間のいきさつについては、週刊BCNの87年2月9日号と2月16日号で、中村正二会長、関昌社長の座談会を掲載しましたね。

 関 そうそう。その節はありがとうございました。

マルチベンダー化は必然の流れ

 関 新会社は順調に立ち上がりましたか。

 奥田 グループ会社ではあったんですが、社風、文化はまるで違っていました。たとえば、昨日は残業したからといって、10時、11時に出社してくる社員がたくさんいる。こうしたところから直していかなければなりませんでしたが、1年ほどで一つの会社になれたと思います。

 奥田 上場は、最初から考えていたのですか。

 関 とりあえずの目標にしていました。社会に一人前と認めていただき、社員が誇りを持って働ける会社にするには、上場を目標にすることが最も適していると考えたのです。

 奥田 当時、第三者保守ということを盛んに言っておられましたね。

 関 パソコンの普及につれて、ネットワークでつながれていくわけですが、故障が発生した場合、サーバーが悪いのか、パソコンなのか、プリンタなのか、その原因を切り分けるのはどんどん難しくなってきた。ネットワークには、さまざまなメーカーの製品がつながっているわけで、私どもは内田洋行の製品しか直しませんなどといったら、ユーザーから出入り禁止になってしまいます。

 そうした時代が来ることが見えていましたから、第三者保守を唱えながら、様々なメーカーとの取引を増やしていきました。今でいうマルチベンダーの体制作りは成功したと思います。

 奥田 株式を現在のジャスダックに店頭公開なさったのが、1998年3月ですが、それを待たずに社長の座を譲られましたね。

 関 ひとつはずっと一緒にやってきてくれた島野(三郎)君に報いたという気持ちと、もうひとつは自身の健康問題が大きかったです。

 奥田 株式を現在のジャスダックに店頭公開なさったのが、1998年3月ですが、それを待たずに社長の座を譲られましたね。

 関 ひとつはずっと一緒にやってきてくれた島野(三郎)君に報いたという気持ちと、もうひとつは自身の健康問題が大きかったです。

 奥田 健康問題とおっしゃいますと?

 関 じつは私、26歳の時に結核で手術した際に輸血を受けていて、43歳の時に肝炎を発症しました。医者からは早く本格的治療をしたほうがいいといわれていたんですが、だまし、だましやってきました。ただ、上場する頃は体がボロボロになっており、社長を続けるのは無理だなと思い始めていました。それで、本社の社長は降り、子会社でアップルのMacの修理工場であるアークの社長だけにしたんです。

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