機械だけでなく人間もアフターサポート――第23回
関昌
社会福祉法人「松の実会」 理事
苦渋の決断でIBMマシンからは撤退
奥田 内田洋行が保守網の再編を行いますよね。何年でしたっけ。関 1981年に、電子系と機械系に保守会社を分けたんです。ウチダサービスは電子系を任され、機械系の部隊についてはウチダマシンサービス、ウチダ事務機サービスに移管しました。
また、保守会社は北海道、東日本、西日本、九州と地域制を取っており、当社は東日本を任されていたんですが、機械、電子の分割を機に全国展開を図れるようになりました。
電子系はメーカーとの深い付き合いが必要なんですか、全国展開を図っていることは多くのメーカーから評価されたと思います。
奥田 CSKとIBM5550の保守契約を結んだのはいつでした?
関 1984年です。全国展開していることが評価されての契約で、当初5年間は絶好調でした。年間30億~40億円の保守料が入ってきたんです。ただ、CSKさんはサービス会社を買収して、東京はやらせてよと言ってきたんです。ところがいくら計算しても、東京を手放せば収支はとんとんになってしまう。地方は赤字のところが多いですからね。
それで、IBMの保守は止めると決断しました。苦渋の決断ですが、儲からないものをやっても仕方ない。ただ、30億円ほどの前受金がありましたから、6か月間は何とか食っていける。この間に、新しい仕事を見つけようと考えてました。
奥田 新しい仕事はすぐに見つかったんですか。
関 ええ、アップルです。アップルとの取引開始に当たっては、人間の運ていうのは分からないものだなって、つくづく感じさせる出来事がありました。
じつは1982年に、関東電子とロジテック製コンピュータ周辺機器の全国保守契約を結んでいました。関東電子の経営が怪しくなって、取引は終えるんですが、じつは関東電子はアップルの代理店でもあり、私どもの担当者だった人がアップルも担当していたんですが、1988年だったかな、秋葉原で彼とばったりあったんです。
この頃、私はパソコンの保守にもっと本気で取り組まないといけないと考え出しており、ヒマは見ては秋葉原の街を歩いてました。
そこで、偶然彼にあったわけですが、彼からアップルの保守をやってくれないかと言われたんです。その気になって、アップルにも挨拶に行ったんですが、関東電子だけでなく、アップルコンピュータジャパン(現:アップルジャパン)と契約しないかという話になりました。正式の契約は1989年3月に結びました。利益率は良かったですよ。
私は信条として、人生を誠実に生きる、人との出会いを大切にする、チャンスはどこにあるか分からない、の3つを掲げているんですが、まさに信条にぴったりの経験をしたことになります。