汎用的パッケージでは天才たちに負ける
奥田 生産管理ソフトを手がけると聞いた時は、それまでのリード・レックスのソフトとは余りに違う分野なので、びっくりしました。何があったんですか。梶山 マイクロソフトからウインドウズ3.0が出たのが90年。これを契機に汎用型パッケージソフトの世界では異変が起きていたんです。世界で高いシェアを持っているソフトしかユーザーが受け入れなくなった。日本でそこそこのシェアを持っていても、土俵に乗せてくれない、そんな時代が始まったんです。
確かに、米国生まれのソフトは、ビジカルク、ノーツ、モザイクなどにしても天才たちが産み落としたソフトでした。最後はマイクロソフトにやられてしまったけれど、天才たちとまともに戦って勝てるだろうか、という思いは80年代の後半に強く持つようになっていたんです。DATABOXも米国に負けるジャンルじゃないかという不安が頭をよぎっていました。そして、90年代に入るとこの懸念が現実のものになってきました。
それで、天才たちに共通する弱点は何だろうと考えてみて、“飽きっぽいこと”ことだろうと、私は勝手に結論づけました。頭がいいだけに、すぐ理解して、ほかのことに関心を移してしまう、これは彼等の弱点だろうと思ったんです。
奥田 飽きっぽくなかったのが、ビル・ゲイツか……。
生産管理なら普通の人間がシコシコ努力してこそ報われる
梶山 われわれ普通の人間が、シコシコ努力してこそ報われる世界、そんな世界があるはずだという思いで周りを見ていました。私が米国にいた頃、日本製の自動車が高速道路で火を噴いたなど、よく問題になってました。それが、改良・改善を続けることでここまできたわけです。ソフトの世界にだってそういったジャンルがあるはずだと、友人たちと話し合っていました。そんな時、ソフトクリエイトの林勝君がこんな話があるけど、やってみないかと声をかけてくれたんです。
奥田 林さんとは大学時代の同期生なんですね。何年頃の話なんですか。
梶山 91年でした。その話というのは、田町電機という電子部品メーカーの生産管理システムを構築することでした。じつは、生産管理システムというのはデータベースの代表的なアプリケーションの一つであり、世界に伍していけるのは製造業のアプリケーションと考えていたので、前から関心を持っていた分野ではあるんです。
開発資金として1億円くらいは出すというので、引き受けることにしました。で、実際に開発に着手してみて、これこそが私の求める分野だという思いがどんどん強まってきました。
それで、生産管理システムに賭けることにしたんです。田町電機のシステムを開発しつつ、汎用バージョンの開発にも首を突っ込んでいったわけです。