大型機のデータベース開発でスタート
奥田 独立して、どんな仕事をしようと思っていたのですか。梶山 大型機のデータベースの開発を主業務とするつもりでおりました。だけど、独立とはこんなにお金のかかるものだという意識は薄かったもので、初めのうちはすごく戸惑いました。
最初に頂いた仕事は、川崎製鉄からのオンラインデータベースのコンサルテーションでした。今考えますと、破格の値段で発注してくれことがわかります。当時、通常のコンサルティングですと月30万円がいいところだったのに、140万円も出してくれたんです。データベースの専門家が少なかったという事情はありますが、当社が順調に立ち上がれたのは川崎製鉄さんのおかげだったなと、深く感謝しています。
奥田 自社ブランドのソフトについてはどう考えていたのですか。
梶山 当然持ちたいと考えていまして、80年にPSS(Planing Support System=経営意思決定支援システム)を開発したいとIPAに申請したら認められまして、1億円の開発資金を頂きました。約1年かけて開発、コンセプトの完成度は高いとの評価は受けたものの、売れたのはたった1本でした。
ビジカルクの開発者に刺激受け、DATABOX開発
奥田 DATABOXの開発はどんな経緯だったんですか。梶山 79年でしたかね、ニューズウィーク誌で、ビジカルクの開発者にインタビューしている記事を読んで、いささか興奮しました。機能の説明よりもなぜ開発したのかといったあたりに焦点を当てた記事になっており、卒論のために使えるツールを作ろういうのが動機だったというくだりなどはよく覚えています。
パソコンでここまで出来るのかという思いと、パソコン時代になればソフト主導の時代がくるなという思いが交錯していました。それまでのメインフレーム時代というのは、ソフトは付属品扱いでした。だけど、これからソフトが前面に出てくる時代がくるなと、直感的に感じ、興奮したんです。
この頃、ユニバック時代の先輩だった大野侚郎先生と会う機会がありました。先生も同じようなことを言っておられて、よし!パソコン用ソフトに突っ込んでいこうと思ったんです。
DATABOXは、パソコンで使うことを前提にしたカード型データベースソフトで、よく売れましたよ。
奥田 確かにロングセラー商品でしたね。
梶山 15年くらい売れ続けました。純利益が3億円を越える年が7-8年続き、プログラム準備金として無税で20億円強を積み立てることができました。当社が生き残れたのは、この積立金があったからです。